ミラノすごいやん
純粋な気持ちで生きること
純粋な心を持って生きていきたい。
客観的に自分の考えを観ると、なぜこんなことに固執するのだろうかっていう価値観がいっぱい詰まっている。
こうやって、自分の中に反発する価値観がつもりつもってくる。
これを肝に命じ、自分が何を考えているのか、良く観察するようにしよう。
心の汚れを取り除くことが、純粋な人生への近道である。
汚れたものを綺麗にする場合は、汚れを丁寧に取り除くことが大事。別の色で塗りつぶすわけにもいかない。汚れを取り除くこと、そして、そもそも汚れないようにすることだ。
やれと言われるとやる気が無くなる不思議
やれと言われるとやる気が無くなる不思議
ここでは、周りからやれって言われてやる気を無くすことと、自分でやらなきゃって思ってやる気を無くす2つの要素がコラボしている。
特に、周りからやれと圧力がかかると、どんどん焦るようになる。焦るようになると、心の中ではネガティブなつぶやきがものすごい多くなるんだ。
やらなきゃいけないときほど、集中力を出さなきゃあいけないのに、心の余裕を失って、雑念で心の中が満たされてしまうんだ。
特に、何回も同じような命令を受けると、アレルギーのような拒絶反応が出るようになってくる。
これを抜け出すためには、毎日、少しでも何か継続して、やる習慣をつけることと、このやる気を失う一連のメカニズムを自分なりに良く分析してみることが必要だ。
自分がやれない条件ってなんなのかなって探してみること。
趣味から考えるやる気と強制の関係
例えば、ゲームもさ、周りから激しくやれやれ言われたり、結果を求められたら、モチベーションは下がる。
理想としては、自分のペースで、前向きに取り組んでいくのがいいね。何事もさ。
疑い深い人ができるまで 【コメントからの気づき】
疑い深い人ができるまで コメントからの気づき
前回の人は何故だかスピリチュアルな視点を疑うようにできている。にて、いただいたコメントからの気づき。
前回の投稿では、人は自分がわからないものを疑う習性があると書いたが、中には、自分がわからないと感じていようと疑わない場合もあるし、疑わない人もいることに、コメントをいただいて気づいた。
人は、生まれた時は全てを信じる心がある。全てを受け入れることができる。それが、時が経つにつれ、人に騙されたり、人が騙されているのを見たりして、疑いの気持ちが出るようになってくる。
ホント・・・? 怪しくない・・・?
幼稚園児がこれらの言葉を言っていることを聞いたことがあるだろうか・・・?本当に?という表現はあっても、それは、期待を込めた本当に?という表現になる。他には、あんまり、「わからない」という言葉も使わないんだ。
それが、中学生・高校生になってくると、疑う心やわからないっていう表現が出てくるようになる。
多くの人が成長する過程で、周りを否定したり、疑う心が育っていってしまうんだ。
この点で言えば、皮肉なことに、心というものは、成長すると共に衰えていってしまうと考えられる。
ピュアな心がどんどん汚れていく。そして、物や人を疑う習性がついていってしまうんだ・・・。
もちろん、これには人によって程度の差もあるし、場合によっても変わってくるだろう。実際、常に全てを疑っているような人はあんまりいなくて、ふだんは何でも信じる人でも、特定のことになったら、急に用心深くなるということもある。
ここの疑いが生じる場合分けってのが面白いんですよ。
まず、疑いとか疑問ってのは、自分が知らない・わからないと感じた時に発生する。さあ、それでここだ。
- 自分が本当に全く知らないことは信じる。
- 自分がちょっと先入観とか知識があると疑う可能性がものすごい高い。
- 自分が良く知っていることに関しては、あまり疑いも出てこず、信じもしない。(この場合はわからないと感じない)
人は中途半端に知っている物に対しては、疑いを持つ可能性が高くなる。人から噂を聞いていたりとか、どっかでちらっと情報を仕入れているようなことは、警戒心が格段に高くなる。
逆に、何も知らなかったら、疑わない。
これは、お化けと子供の対応からイメージできるだろう。
お化けの存在を知らない子供は、お化けを恐れない。
お化けがいるよって聞かされた子供は、お化けを恐れる。
お化けはいないでしょうと、わかってる大人はお化けを恐れない。
これまでの話をまとめてみると
人は経験を積むにつれ、人や物を疑いやすくなる。まず、疑ってかかれってことも当然のように、言われているしね。で、疑いが発生するような場合ってのは、中途半端に知識があるような状態だ。
科学やってる人からすると、疑うことから、発見がある。と言う人もいるかもしれない。
ここで、さらに考える必要があるのは、批判的に疑うってことと、前向きに疑問を投げかけること、2つの場合があるんだ。
これね、日本語では区別が無いんだな。一応、疑問と疑惑という風に分けることができるんだけど、
深く突っ込んでいくと、この日本人の用いている言葉には、肯定的なニュアンスと否定的なニュアンスがごっちゃになって日常に用いられている言葉が沢山ある。
疑うっていう表現はその一つだ。英語だったらさ、否定的な場合で suspcious とか doubt と 肯定的な場合で question とか で使い分けができるでしょう。
ちなみに、僕の書いている文章は、論理的に考える人から見れば、疑いがポンポン湧いてくるだろう(笑) 僕の主張ってほとんどソースもデータも無いものね。直観ですよ。直観。
感じたものを感じたように書いている。
人は何故だかスピリチュアルな視点を疑うようにできている。
人は何故だかスピリチュアルな視点を疑うようにできている。
まず、はじめは自分が知らないことに対する拒否反応が誰でも起こる。
ここで話を脱線してみよう。
で、疑いの強い人ってなんとなく、はたからみてて、何か信じるものがあるように見えませんか?
たぶん、疑いの強い人ってのは、自分の知っている世界、自分の常識、自分の価値観を無意識的に強烈に信じている人なんだろう。
物を疑うこと=自分の感覚している世界のみを強烈に信じること
で、話をスピリチュアルの話と人の反射的な拒否反応に戻す。
- ピュアな心の持ち主
- 何か生死をさまよったとか、光を感じたとか、ありえないような偶然が起こったとか、特別な体験をした人
- 疑いながらも、拒絶をせず、理解をしようとする人
疑いの心を無くすか、体験によって自分の世界を広げるか、疑う心を疑うか。
同じ迷うのであれば、信じずに疑って迷うよりも、信じて騙されて迷った方がいい。何故なら、信じて救われる可能性があるから。
これは、本当に信ずるものは、迷うことがないということを暗に意味している。
いただいたコメントより スピリチュアルな視点と哲学的な視点と科学的な視点
id:cawnnyさんから、前回の投稿でコメントをいただいた内容から、スピリチュアルな視点についてふと気になったことがある。
スピリチュアルな視点で世界はどう解釈できるのか・・・。科学的な視点とはどう違うのだろうか・・・。などなどである。
物事はスピリチュアルな視点、哲学的な視点、科学的な視点、各々の感情が感じた視点の4つの視点から解釈できる。
スピリチュアルな視点は哲学的視点と近く、
哲学的な視点は科学的な視点に近い
で、ここで考えてみたいのが、大本の大本ってなんでしょうってこと。
だから、宇宙には、創造主が決めた、何らかのルールがある。
これらの違い、サンタクロースを信じるか信じないかってことでたとえられるんじゃないかな。
と、例えをしてみるが、これが、サンタクロースを神って存在に変えるとどうかね?
人生をつまらないと感じる人は、人生の理解が浅い。ただ、それだけなんだ。
幸せに生きてるかい?
これに胸を張ってYES!と答えられる人はごく僅か。
生きてはいる、が、なんとなく心の底で、自分の生き方に、周りの社会にモヤモヤしたのを感じたまま生きている人だらけ。
僕は、人生を理解して、社会を理解して、科学を理解して、宇宙を理解して、そして、人生や宇宙の法則ってやつを見つけていきたいんだ。
それで、そのきっかけを見つけるために、ブログを書いている。こう、ブログを書いてみることで、自分の思考がどんどん整理されていって、自分が知らなかったことが、次々に湧いてくるようになるんだ。
じゃあ、人生を理解するとどうなっていくのか?
これは、スポーツとか、ゲームで例えると、わかりやすいんだ。
将棋を理解していない人が将棋を見たらつまらなく感じる。
サッカーを知らない人がサッカーを見ても、あまり面白くないだろう。
サッカー選手を理解して、サッカーのルールを理解して、サッカーのチームを理解して、理解を重ねていくことで、サッカーがより楽しめるようになる。
人生もそうなんだよ。
人生も理解が浅いと全然詰まらないんだ。
そう。理解を深めよう。そうすれば、もっともっと人生が面白くなってくる。
今の人生がつまらないと感じている人は、要は人生の理解がただ浅い。
何をやるにしても、わからないって気持ちがもやもやとやってくるわけだ。
それで、わからないから、もやもやして、考えることを放棄してしまう。
そこで、しっかりとその自分のわからないと感じる感情に向き合うことだ。
この、自分がわからないと感じている時は、自分の人生の理解を深めるチャンスなのだ。
人生つまらないと感じている人間は、こういう、チャンスでいつも逃げ出す。いつも思考放棄をしてしまうわけだ。
正直、わからないと感じている時は、誰だってつらいなぁと感じますよ。不愉快に感じるでしょう。
でも、それを乗り越えるからこそ、わかった後の喜びがある。
迷いはそのままにしてもその迷いが永劫に残るが、悟れば一瞬で雲が晴れる。
わからないという気持ちから、逃げていると、いつまでも迷いは晴れない。
しかし、そのわからないという感情に素直に向き合うことができれば、すぐに、自分の中で、自分は何がわかっていなかったのか、そして、答えを見つけ出すだろう。
これは、何をやるにおいても重要。何においても重要なんだから、人生において本当に重要。
人生楽しくしたきゃあ、これをやるんだ。わからないという気持ちに立ち向かっていくことだ。そうすりゃあどんどん理解が進み、人生が楽しくなってくる。
闇ある中に光あり。それが人生だ。
闇ある中に光あり。それが人生だ。
それは、宇宙的な視点と人生的視点から解釈できるんだ。
つまりは、光ってのを感じるために、光の存在をわかるために、闇ってのがあると解釈できる。
で、人間の方を考えてみたい。これも、宇宙と同様の解釈ができるだろう。
だから、この、闇あるところに光ありっていう考え方を受け入れることができればさ、無闇に闇を恐れなくなるわけだ。
それは、自然の生き方じゃあない。地球もそうなっていないしね。
繰り返しになるが、まず、宇宙には闇がある。闇があるから光があるのだ。これが悟れれば、闇を恐れることが無くなる。人生において、もはや何も恐れず。
刺激のある情報って入れるのは楽だが、それに溺れると堕落する
刺激のある情報って入れるのは楽だが、それに溺れると堕落する
刺激のある情報ってわかりやすい。音が派手だったり、音にメロディーがあったり、動画だったりするわけだ。
あと、一番刺激があるのは他人と一緒にいるときに受ける情報。これは、友だちと喋っていてもそう。授業を受けていてもそう。テレビも刺激は強いが、それ以上に生のコミュニケーション。
この刺激の強い情報は、入れるのは楽。というよりも、勝手に入ってくる。刺激を受けていると。
で、この刺激が強い情報ってのは、わかりやすいし、一発で覚えてしまう。例えば、知り合いが付き合っていて別れました。っていう情報を聞いたら、もう2度と忘れない。1回聞いただけでも、1年は忘れないだろう。
これが英単語だったらどうだ。100回聞いても、聞いただけでは1年経ったら忘れる。記憶を定着させていかなければならない。
多くの人は、刺激のある情報に溺れる。刺激のある情報を求めてしまうんだ。
そして、その情報は、自分の中に入ってきても、また何回も繰り返される。感情が揺り動かされてしまうんだね。
そして、刺激が少ない、紙媒体の、いわゆる学習向けの情報を習得することはできなくなっていく。。。
ある程度の年が経てば、刺激そのものに慣れてきて落ち着くって可能性もあるんだけど、そうなったときに、刺激が少ないものから、満足が得られるかといえば、その可能性は低いだろう。
刺激に溺れないように意識していきたい。しかし、社会は往々にして人の感情を駆り立てる方向に発展していってしまっているわけだ。
それで、刺激が多い人生の方が幸せだって考える人も多いでしょう。人生、喜びが多いほうが幸せだって感じている人も多いでしょう。しかし、実際はそうではない。苦しみ無くして喜び無し。悲しさ無くして、嬉しさ無し。
結局、刺激が多いことを望めば、喜びの時間とともに、不幸の時間もやってくる可能性がべらぼうに高くなるのだ。
刺激を求めずして、ありのままの人生を受け入れ、平凡な日々であろうとも、生きる喜びを実感し、日々大切に生きていきたい。
人を理解しきったって言えるまでには300個ぐらい悟ればいいのかな?
人を理解しきったって言えるまでには300個ぐらい悟ればいいのかな?
ある人を理解したって言えるまで、その人に対する気づきは何個ぐらい必要なんだろうか。
100ぐらいはいるか。200ぐらいはいるかもしれない。その人の性格から、交友関係、歴史から何まで。200じゃ足りないかもな。
そうなんだよ。全然足りないんだ。足りないのにさ、自分達は分かった風に人を判断してしまっているわけ。理解不足なのに、人の言動に対して、あーだのこーだの言っちゃうわけ。そういう時に、どうしてその人がこういう言動したのかとか、どういう意図でそういう言動したとか、理解していないのに、偉そうに発言しちゃうわけ。
この人は、こういう人なんだね。とかね。
わからないんだよ。他人ってやつは。自分のこともそうだけど。でも、わかった気になっちまうんだ。我々。
わかった気になってしまうのが、本当に罠。そこで、理解しようって姿勢を失っちゃうもんね。
だから、物事を理解したいと思ったらさ、判断を出さないってことなんだ。ここで、わからないとも判断を出さないってことだ。
わからないってのも、1つの判断だからね。たいていの場合がわからないで終了か、わかったふりして終了かのどちらかなんだ。
理想で言ったら、人に対して、判断を下さないのがいい。良いとか悪いとか決めようとしない。ただ、人がいる。そして、その人がこういうことをした。せいぜい、ただの事実を挙げるぐらい。そこに良いも悪いもない。
良いとか悪いとか、そう簡単に決められないんですよ。
宗教の教典とかあったら別だよ。それを元にある程度、行動の善悪を判断できるからね。
ただ、薄っぺらい理解じゃあダメだ。こうしたら良いと聖書に書いてあるから。じゃあ、全然ダメ。
なんでこうしたら良いと聖書に書いてあるのかと、吟味していく必要がある。
と、宗教の話はおいておいて、無闇矢鱈に他人を判断しようとしないことなんだ。
それが人生の秘訣さ。
人に判断をつけると、それが自分に跳ね返ってくる。周りがこうしていると、感じてしまうと、自分もそうしなければならないと感じてしまう。
知らず識らずの間に、外から価値観がどっさりと入ってきてさ、それに縛られるようになっちゃうんだよね。それも、もともとは自分が何かに対して判断を下したから。
理解をしたと言い切れるまでは、理解したふりをしなくてもいい。
たぶんあれだ。日本って、わからないっていうことを恥としている。だから、わかっているふりをするようになる。
わからないことを恐れるがあまりに、答えに固執するんだね。なるほど。
木のように幹を太く、根を深め、そして葉を広げていく学び方
木のように幹を太く、根を深め、そして葉を広げていく学び方
これが、最も良い学び方であると感じている。一本の一貫したものを掘り下げていく、そうして、掘り下げていきながら、そこに付随した知識をそれまでの知識と結びつけていく。
学びには一貫したものが大切だ。散逸的に、つまりはばらばらに学習していこうとすると、とても効率が悪く、身につかないんだ。関連性の薄いこと、例えば、将棋とポーカー、麻雀を同時に勉強してもなかなか上達しない。将棋とチェスなら多少は関係性があるかもしれない。
しかし、もっと良いのは、将棋に関連したことを学び続けること。詰将棋だったり、将棋に関わる人だったり、将棋の歴史だったり、将棋の実力という軸を磨きながら、それに関連することを学んでいく。
普通は無意識的にこう学んでいるはずなんだ。一本の自分の興味があることを軸に、広がっていくような学び方。こうなってくると、興味が興味を呼んで、モチベーションも湧き上がり、そして、実力も増していく、そして、その中で創造性が発揮され、新たな手を生み出していくことができるだろう。
今の自分は、こう学べているのかどうか疑問なのである。どうしても、散逸的な勉強になっている。発散的になっている。そして、興味を失っていく。肝心な幹がない。枝葉部分に学びが集中してしまっている。だから、いつまでやっていても、自分に基礎が無いような、そんなもやもやした気持ちになってくる。
これを打破していくためには、1つずつ整理していくしかない。1つずつだ。今、自分が持っている知識はバラバラなんだ。整理してつなげていく。そして、掘り下げ、広げていくように理解していこう。
今の研究室、これを単独でやっていかなければならないと感じている。しかしだ、これは、今の研究室が悪いわけではないんだ。もともと、こういうものなんだ。学問ってさ。
学問ってバラバラな知識をまとめるもんだ
未知なる領域を開拓していくには、手探りながら、バラバラな知識を集めてみて、整理して、そこに体系化を行なっていく必要があるだろう。だから、もともとはこういうもののなんだよ。
うまくいかないとか、自分がなんとなくいけていないなって感じるのを、何か外が原因であるように考えてしまってはいけない。ただ、別に自分が悪いとか、自分が悪かったとか、そういうわけでもないんだ。
上手くいっていないからって、自分や環境を責めるこたぁない。
ただ、今までは自覚していなかった。気づいていなかった。それだけなんだ。それに、気づくことができた。
別に自分が悪かったわけではない。ただ、良いやり方、うまいやり方に気づいていなかったんだ。
木のように知識を太くし、深め、広げるこの自覚を大切にしていこう。
正解を求めるなかれ
正解を求めるなかれ
シンプルなものから遠ざかれば遠ざかるほど、答えから遠のいていく
人生だってシンプルに捉えていった方がいいんだよ
観察し続けること
良く観察すること。
良く観察し続けることは大切だ。物事や人を良く観察する。人が観察する時、そこに感情の要素は入ってこなくなる。
逆に、感情が発現している時、自我が全面に出ている時は、観察することは難しい。観察不足になり、誤った判断を下してしまいかねない。
感情を抑えて、観察し続けることだ。自分の思考を、目の前の知識を。
心を空にして、じーっと観察することができれば、そこから、今まで見えてなかったものが沢山見えてくる。頭の中でつながっていく。
特に、自分が得意としていないものに対してこそ、観察は有効である。得意としていないものは、その時点でなんらかの自我が発動している可能性がある。
そして、思考が閃いたら、書いてみることだ。書いてみて、また観察する。
人の観察は、自分の自我を超越させて行わなければ、ただの批判に終わってしまう可能性がある。
拡散的な学習をすると学びの効果は薄い
拡散的に、発散的に勉強していくと、学ぶ効果がひたすら薄くなっていく。
身体の中でもやもやする気
身体の中でもやもやする気を上手く意識していこう。