ねこ哲の思考メモ

気づきや日常をメモしていく。後に思考を整理するために。

原始人にパソコンを与えたらどうなるか?

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原始人にパソコンを与えたらどうなるだろうか

 
今の最新スペックのノートパソコンを原始人に渡す。
 
まず、わけもわからず適当にぐちゃぐちゃ押したり、叩いたりしてぶっ壊すだろう。
 
壊してしまったら、もう1つパソコンを渡す。何回かやるうちに、電源ボタンに気づき、画面がつく。そしてこれに怯える。
 
しばらくすると、わけもわからないまま用いて、壊すかもしれないが、次第次第に使い方を少しずつ理解してくる。
 
まず、どうやったら壊れてしまうのか。というシンプルなところから、キーボードを押すと文字が入力されるということを理解しはじめるだろう。
 
次第にこのノートパソコンに飽きて何もいじらないやつもいれば、夢中にノートパソコンをいじるやつも出るだろう。
 
それでも、いじった所でまだまだ彼らは使いこなせない。少しずつ仕組みを理解していくことはできるだろうが、完全にそのパソコンの仕組みを理解するには数十年以上かかるだろう。膨大な時間と試行錯誤が必要だ。
 

なぜなら、彼らはパソコンを創っていないから。

 
そう。彼らはパソコンを創り出していない。しかも、周りにパソコンについて知る者は皆無である。だから、どの部品がどのような役割になっているか、どのソフトがどのような役割になっているかということを到底理解することができない。
 
壊して、分解して、エラーが出て、壊して、我武者羅にやって直して、という試行錯誤をひたすら続けて、少しずつ少しずつ、部品やソフトの役割を知るだろう。
 
そして、少しずつ理解して理解して、使いこなせるようになっていく。
 
ここまで読むと、僕の言わんとすることがバレバレだと思う。
 

そう、この原始人にパソコンの例は、人間が気がついたら人間でしたっていうことの例えなんだ。

 

僕ら人間は、人間を創ったわけじゃない。気がついたら人間だった。

 
それで、自動である程度生命活動を確保できるような本能なるものはあらかじめ植えつけられている。
 
それにより、人間は生活し、人間は人間を産み出すことができているが、人間が人間を設計して創りだしたわけじゃない。人間の誰もが、人間の創り方を知らない。
 
ここは、誰かが人間や動物を設計したんだろう。多分、その存在は、宇宙の全ての法則から何やら設計したんじゃないかと思う。
 
設計しないと、こんな複雑でありながら、バランスがとれているもの創れないもの。
 
宇宙も。生命体も。
 
ここで誰が設計したのかってのは、色んな宗教で扱われているので、その話はここでは置いておこう。
 
要は、僕ら人間が人間を創ったわけじゃないから、人間に関して知らないことだらけわからないことだってことだ。
 
そして、理解が深まれば深まるほど、人間として、どうすれば自分自身が向上するのか、壊れるのか、変わるのかがわかってくる。
 
例えば、パソコンを設計した技術者であれば、どこをどういじるとどうなるかがわかる。PC本体の部品やソフトの動作が不調である時は、どう処理すれば改善するのかがわかる。
 
これは、人間の例で考えると肉体関係は医学であり、心の関係は心理学や哲学になるだろう。
 
どうなったら、どうなる。どうなったら、どうなる。このような試行錯誤を人類は常に繰り返している。
 
病気が発症したら、治療をする。戦争が起きたら、もう戦争は起きないように制度を整える。喧嘩をして、仲直りする。いたずらして、怒られる。ネガティブに考えると、人生がうまくいかなくなる。人にしつこくすると嫌われる。
 
いろんな困難を乗り越えて、いろんな過ちを犯して、試行錯誤を通して、人は、人間を、人生を理解していく。
 
原始人にパソコンを与えると、試行錯誤になるように・・・。 わからないから、ミスすることもあるだろう。自分や人間関係を壊してしまうこともあるだろう。 
 
ミスしても、壊してもそこから学ぶことだ。そのミスを通して、その裏側にある原因、仕組みを理解していくことだ。
 
あー。俺が全然人間、人生について理解してないのは、俺が人間創ったわけじゃないからだーって捉えられると気が楽になりますよ!そうなると、謙虚の心が芽生えていく。
 

余計なことを喋らないためには、感情を抑えることと寡黙さを意識すると良さそう

昨日の  考えられない。考える。考えない。 に引き続いて、今回は喋ることに関して理解を深めたい。まずは漠然と喋ることについて取り上げる。

 

喋られない。喋る。喋らない。
 
表現を変えて

人と合わせて喋れない。喋る。余計なことを喋らない。

こう捉えてみる。
 
喋る。話をする。これらの行為は、コミュニケーションの要であることは言うまでもないが、実際にどう振舞ったら良いのかなかなかわかりづらい。
 

喋った方がいいのか。喋らない方がいいのか。

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考えられない。考える。考えない。

考えられない。考える。考えない。
 
僕は、人のあらゆる行動において、考えられない。考える。考えない。といった3段階の状態があることを感じている。
 
他には、
食べられない。食べる。食べない。
喋れない。喋る。喋らない。
力を入れられない。力を入れる。力を入れない。
寝れない。寝る。寝ない。
 
ここで、僕は3つめの段階に注目している。3つ目の段階に、少し言葉を足してみよう。
 
考えられない。考える。余計なことを考えない。
食べられない。食べる。余計な量を食べない。
喋れない。喋る。余計なことを喋らない。
力を入れられない。力を入れる。余計な力を入れない。
寝れない。寝る。余計な時間は寝ない。
 
こう言葉を変えてみると、イメージがしやすくなると思う。
 
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批判を恐れる心。そして正当化。

批判を恐れる心。そして正当化。
 
僕は、心の底で、他者からの批判を恐れている。
 
自分の行う仕事に対して、自分はここまでやったいるから、これだけやっているからいいだろう。という意識がつきまとってくる。
 
この意識から、自分は外部からの批判を恐れると同時に、自分自身を正当化していることがわかる。
 
なんとなく意識の底で、批判を受けたときに、
 
じゃあ君はできるのかな?
とか
君はそう言うが、君の話にも欠点がある。
 
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結果や成果を求める人生

結果や成果を求める人生
 
人生において、何をするにも結果が大切、いくら頑張ったって結果が出なければ仕方ない。こう考えている人は多くはないだろうか。
 
 
実際、スポーツや将棋のようなルールが明確である競争、競技の場であれば結果を求めるだろう。
 
あとは、受験や資格など、一律の条件下で競うのであれば、結果を求めるのは妥当である。
 
しかし、人生というものは、競争がメインなのだろうか?
 
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批判や疑いの裏側にはわからないという気持ちが隠れている

批判や疑いの裏にはわからないという気持ちが隠れている

僕らは、他人に対して、情報に対して反射的に疑ったり、批判してしまう傾向がある。

以前、(疑い深い人ができるまで)にて、疑うことと、わからないという感情に関して少し触れたが、今回は批判する心も含めて考えていきたい。

人は、不思議なことに、ネガティブに生きなさいとか、人を批判して生きなさい、と教えられていないのに、否定的に、批判的に生きてしまう傾向がある。

この理由として、無知であるがゆえに、わからないという感情があるがゆえに否定や批判が生まれるのではないかと考えられるのである。


スポーツの観戦をイメージしていただきたい。

例えば、野球を観戦していて、プロの選手のミスに対して批判をする場合を考える。
ここで、批判が目立つのは、野球をよく知らない人間だろう。

あとは、野球好きのおっさんとか。


どちらも、プレーする人の目線に立つイメージができない人だ。プレーする人の感覚がわからない。

なぜ、どのようにミスが生まれるのか、その過程や理由がわかるとき、批判的な心は消えていく。

人が他人に対して文句を言う時、実際に自分がやったことがないことに対して文句を言う場合が多い。

否定や批判の心を無くすには、相手の立場に立ってイメージすること。これにより、自分がそれまでわからなかったことに、気づくことができるようになる。

我々は物事の過程を知っていれば、批判や否定をする心はおさまる。対して、物事の過程を知らず、結果を突きつけられると、批判や否定の心が湧いてくる。過程を知らないから。

今の現代はどうだろうか。結果ばかり求められるような社会ではないだろうか。否定や批判があふれてやしないだろうか。過程は大事にされているだろうか。


できない人のネガティブ症候群よりもできる人のうぬぼれ症候群の方が厄介

できない人のネガティブ症候群よりもできる人のうぬぼれ症候群の方が厄介

 
できない人が、ネガティブ気味な傾向があるとか、言い訳しちゃうとか、その辺の傾向はもうみんなだいたい感じ取ってきている昨今、ポジティブシンキングをはじめとしたできる人になるためのメソッドが本だったりインターネットのあちらこちらで紹介されております。
 
さてさて、ここで表題にもありますように、めでたくポジティブになってきて、いわゆるできる人ってのが量産されるようになってきたのですが、ここでまた困ったことが発生している。今回はできる人特有の傾向、うぬぼれってやつの理解を深めていきたい。
 
たぶんこれはみんな感じている。いわゆるできる人やいわゆる成功してるっぽい人には、プライドや傲慢さ、自惚れの匂いがぷんぷんすることを。
 
ここで、真にできる人については除外していこう。
 
真にできる人は、自らが自惚れることを克服し、積極的で向上心がありながら、素直で謙虚さ、純粋さを兼ね備えた、全く臭みの無い人だ。
 
ここへ至るには、自惚れを克服することが必要だ。
 
ということで、自惚れを理解することにしよう。
 
早速ですが、人が上達したり、できるようになると、自惚れることはまず避けられない。
 
なぜなら、人ができるって感じるとき、そこに比較と批判の概念があるから。過去の自分や周囲と比べて、できるようになったなと、こう感じる時、心は緩む。
 
自分はできるって意識の中には、自分は頑張っている、自分はすごいって意識だけじゃない。こいつは、ダメ。あいつは、頑張ってない。っていう、他者を見下す価値観も含まれているんだ。
 
これは、別に自分ができないと感じる人でも感じちゃうことなんだけど、自分ができるって感じている人ほど、強く感じてしまうことなんだ。
 
真面目な人からすると、不真面目な人が目に付くし、頑張っている人からすると、頑張っていない人が目に付いてしまう。
 
そして、他者を批判する心とその他者を見て、自分はいけていると正当化する心が生まれてくる。
 
他者を批判していくことで、心は傲慢になり、自分を正当化して、自惚れていくわけだ。
 
普通に生きて、普通に努力していても、この自惚れるスパイラルに陥ることを避けるのは難しい。
 
自惚れればもっと他者を見下す心が強くなり、心が狭くなっていく。
 
 
もちろん、この自惚れにはレベルがある。もう、全面的に自慢が出てくる人と、そんなに自慢しないんだけど人を見下しているのがなんとなくわかる人がいる。
 
 
自惚れて何か悪いことがあるのか
 
自惚れる人の立場が弱者なのか強者なのかで状況は変わる。できる人は権力を有している可能性が高い。
 
弱者が自惚れた場合、そこには害は少ない。ただ、周りの人間が離れていくだけだ。
 
強者の場合、これは厄介な問題に結びつく場合がある。
 
自惚れると、傲慢さと組み合わさり、自分の価値観に合わぬものを排斥しようとする可能性がある。
 
権力と傲慢さは組み合わさるとタチが悪いが、だいたいいつもセットで他者を苦しめるようになる。
 
これは不思議だ。今、傲慢に見えるような人ももともとはそうではなかったろうに。。。
 
 
自分が成功するに従い、うぬぼれの種が育ち、傲慢さの花が咲く。
 
これを気をつけねばならない。雑草を刈り取るがごとく、己の未熟な心を根絶やしにしていかねばならぬ。
 
僕がこうやって文章を書いていても、その思考の裏側には、うぬぼれの心がやってくる。
 
ああ。自分、人間の思考に関していろんなことに気づけるなぁ。こういうことに気づけない人間は沢山いるんだろうなぁ。ってね。
 
この意識があることに気づき、それを消していきたい。
 
傲慢さはいったいどこからやってくるのか。うぬぼれはどうして出てくるのか。
 
これの背後には、人間の感情、特に、自分を特別視したいという欲求があるのだろう。
 
心理学の本にはこの辺のことは研究されているだろう。しかし、実際にどうやって消していくか。
 
自分が純粋に成長しながらも、全く嫌味の無いような、人間。
 
まさに宮沢賢治雨ニモ負ケズで出てくるような、素朴な生き方が僕の一つの理想だ。
 
まずは、自惚れや傲慢さってのが知らず知らずの間に勝手に育ってきてしまうってことを理解しよう。

ミスを恐れるのではなく、ミスを用心すること。

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ミスを恐れるのではなく、ミスを用心すること。

 

僕たち、ライフは1機しかないけどさ、ライフはそんな簡単に無くならないじゃない。そんなにミスすることを恐れなくったっていいんだ。大切なのは、ミスを恐れないことと、ミスしてもまた立ち直ること、あとは重大なミスを引き起こさないように用心するってことだ。

 

まずは、ミスをなんでやたらと恐れてしまうのか、理解してみよう。

 

ミスを恐れる気持ちってのは、成功への執着から生まれてくる。

 

人生の理想形ばかり追い求めていると、上を目指すことばかりに意識が集中してしまう。

 

上へ登れば登るほど、落ちることが怖くなる。失敗を恐れる気持ちが高まってくる。

 

意識が高いって人ほど、成長意欲が高いって人ほど、それが崩れることを恐れるようになるだろうなぁ。仮に、崩れてもなお、成長し続けようとする意欲が燃え盛る人は本物だ。

 

そして、上ばかり見てしまう心に加えて、何故だか人は、自分に都合の良いように人生を捉えがちになっちゃうんだなぁ。

 

これは、用心する心を失ってしまい結果的に重大なミスにつながる可能性がある。

 

結婚する時も、離婚の可能性があることとか、夫婦の仲が上手くいかない可能性があるとか、その辺のことはあんまり考えてないですよ。

 

よしんば、ちょっとは、結婚に関する将来の不安を考えることはあっても、関係が悪くなってきたとしたら、お互いどう乗り越えていくかってとこまで考えている人は少ないだろう。

 

結婚に至るまでの問題点の解消には、二人で全力を出すんだけど、一旦、結婚という関係が出来上がった後は、それが崩れていくと、立て直すのになかなか全力を出していけなくなる・・・。

 

自分の足元をしっかりと確認せずに、上ばかり見て、自分の都合の良いように人生を考えてしまうから、足元をすくわれるようになる。

 

ただ、逆に、何もかもを心配しすぎると、何も恐れてできなくなってしまうってことも起こりうる。


用心と心配は近いようで異なるが、はっきりと意識して区別することは難しい。


用心しているつもりが、ただ心配しているだけになる可能性もあるので、要注意だ。


他人のことは、心配になりやすいことに注意しておきたい。 

 

まとめますと、

  • 人生大したミスはそうそう無いから、あんまりミスにびくびくしないこと
  • ミスを恐れるあまりに新たなミスを生み出すことがあるので、ミスは気にしない
  • ミスに対して恐れることはせず、用心する

ミラノすごいやん


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今、研究の訪問でイタリアのミラノにきています。

写真はミラノ大聖堂。14世紀に建設開始され、そこから完成までに500年をかけた、世界で2番目にでかい寺院。

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街並みがおしゃれである。

現在、訪問しているのはミラノ工科大学という、イタリアでトップレベルの工科大学。

イタリアの先生方は皆陽気で、やさしく、スタイルが良い。


このミラノ工科大学の学生と先生は英語が上手い。喋っている単語のレベルはそう高いわけでもないかもしれないが、ネイティブよりちょっと遅いぐらいのスピードで会話ができるのである。

プレゼンテーションも上手い。

とても良い刺激になっています。

こんな刺激を受けていると、周囲の環境とか全く気にせずに論文を書いていかなきゃいかんなって思う。

論文を書いて、プレゼンテーションを鍛える。

当たり前のことを、当たり前のように努力する。

そんな良い見本を見せていただくことができた。

イタリアの人に対して感じたことは、噂に違わず、彼らは喋り好きな人が多いということだ。こちらから話かけなくても、喋り続けてくれるため、とても、楽しく過ごせる。

いいねぇ。ミラノ。


純粋な気持ちで生きること

純粋な心を持って生きていきたい。


人生こう生きたら正しいとか、こうするのがすごいとか、何も考えることなく、ただ無邪気に生きていきたい。

しかし、なかなかそうは生きれない。自分の心の中には、あれがすごいとか、これが正しいといった価値観が山のようにたまっている。

客観的に自分の考えを観ると、なぜこんなことに固執するのだろうかっていう価値観がいっぱい詰まっている。

どこから、それらの価値観がやってきたのか。一つは外の世界から。これをやると正しい、あれをやると良いんだよって刺激を僕らは絶え間無く受けている。

もう一つは自分の中から。外から受けた刺激に対して、批判的に感じてきた価値観。例えば、教育は厳しくするのが正しいという価値観があるとする。それに対して、は?教育を厳しくしても、場合によるだろ?ただ厳しくすりゃあいいってもんじゃない。って、反発するような意見が出てくる。

こうやって、自分の中に反発する価値観がつもりつもってくる。

理想としては、それらの価値観を良く吟味して、どういう場合はどうすれば良いのか、どういう条件だと、主張が妥当なのか、確認していく必要がある。

これは、いわば心の掃除だ。そして、なるべくポジティブに向かうように、自分の価値観をコントロールしていこう。

周りからきた情報をただ否定してしまうと、自分の中に傲慢さが生まれていく。

批判を繰り返していてはいけない。

これを肝に命じ、自分が何を考えているのか、良く観察するようにしよう。

心の汚れを取り除くことが、純粋な人生への近道である。


汚れたものを綺麗にする場合は、汚れを丁寧に取り除くことが大事。別の色で塗りつぶすわけにもいかない。汚れを取り除くこと、そして、そもそも汚れないようにすることだ。

やれと言われるとやる気が無くなる不思議

やれと言われるとやる気が無くなる不思議


多くの人は体験しているはずだ。これをやりなさいと言われると、ものすごいやる気が無くなることがある現象を。


そして、たいていそういう場合には、もっと、やれっていうプレッシャーがかかってくる。

で、やる気が出ない。

やらなきゃと思う。

やる気が出ない。

時間が過ぎていく。

やばい。

やらなきゃと思う。

やる気が出ない。

あー。もう、自分はなんでこんなことやってんだ。こんなこと意味あるのか?

と、意味を考えはじめる。

でも、やる気が出ない。むしろ萎える。

なんで自分はこんなにぎりぎりになるまでやらないんだろうって考える。

次はもっと早くからやろうって。

で、また同じことが起きる。

これはあるあるだろう。


ここでは、周りからやれって言われてやる気を無くすことと、自分でやらなきゃって思ってやる気を無くす2つの要素がコラボしている。


シンプルに考えてみると、ここは心の余裕と、過去の習慣から考えることができるだろう。


やらなきゃやらなきゃと思えば思うほど、そして、周りからやれ、やれ、と言われるほど、心は余裕を失っていく。


特に、周りからやれと圧力がかかると、どんどん焦るようになる。焦るようになると、心の中ではネガティブなつぶやきがものすごい多くなるんだ。

いついつまでにやらなきゃいけないとか、できなきゃどうなるとか。

心ってもんは、余計なことを考えれば考えるほど、パフォーマンスが落ちていくことに、多くの人は気づいていない。

パソコンで、アプリやソフトを立ち上げまくるとパフォーマンスが落ちるのと同様に。

やらなきゃいけないときほど、集中力を出さなきゃあいけないのに、心の余裕を失って、雑念で心の中が満たされてしまうんだ。

目の前のことに集中できなくなる。


で、たいていの年頃になると、人からやれって強制されると、反射的に拒否反応が起きるようになる。

なんで自分が?

わかってるよ。

今、やろうと思っていたところ。

この辺のやりとりは、親から来る命令で起きやすい。親からの強制ってのは、ずーっと過去から続いているからね。


特に、何回も同じような命令を受けると、アレルギーのような拒絶反応が出るようになってくる。

こうなってくると、やれと言われてやる気を失うし、しかも、その自分のやる気が出ない原因を周りのせいにし出してしまう。

もちろん、作業は全然はかどらない。


これを抜け出すためには、毎日、少しでも何か継続して、やる習慣をつけることと、このやる気を失う一連のメカニズムを自分なりに良く分析してみることが必要だ。

もし、あなたが、やならきゃいけないと思うことをやれない人だとしたら、それは別にあなたが悪いとか、あなたの周りが悪いとか、そういうことは無いんだ。

みんな、いくつかの条件が整ってしまうと、やれなくなってしまう。努力できなくなってしまうんだ。

自分がやれない条件ってなんなのかなって探してみること。


ヒントは、心の余裕と、周りから受けるプレッシャーとその繰り返し、あとは今の習慣だ。

これが理解できていけば、心が楽になって来るはずさ。そうすれば、前向きに楽しめるようになってくる。


趣味から考えるやる気と強制の関係


趣味ってさ、自分でやりたいように、自分のペースでやってるから面白いし、自分でもやろうって気になるでしょう。それで、すぐにやることができる。

周りから、やれってあんまり言われないよね。それにあまり結果も求められることがない。

例えば、ゲームもさ、周りから激しくやれやれ言われたり、結果を求められたら、モチベーションは下がる。

つまらないとか、飽きたと感じたゲームをやり続けろっていわれたら、すこぶる苦痛になってくるね。


この趣味で挙げたのも、自分が好きでやるようなものも、条件次第では苦痛に変わるってことさ。


理想としては、自分のペースで、前向きに取り組んでいくのがいいね。何事もさ。

そうすれば心もリラックスしながら、楽しみつつ取り組むことができる。

疑い深い人ができるまで 【コメントからの気づき】 

疑い深い人ができるまで コメントからの気づき 

 

前回の人は何故だかスピリチュアルな視点を疑うようにできている。にて、いただいたコメントからの気づき。

 

前回の投稿では、人は自分がわからないものを疑う習性があると書いたが、中には、自分がわからないと感じていようと疑わない場合もあるし、疑わない人もいることに、コメントをいただいて気づいた。

 

人は、生まれた時は全てを信じる心がある。全てを受け入れることができる。それが、時が経つにつれ、人に騙されたり、人が騙されているのを見たりして、疑いの気持ちが出るようになってくる。

 

ホント・・・? 怪しくない・・・?

 

幼稚園児がこれらの言葉を言っていることを聞いたことがあるだろうか・・・?本当に?という表現はあっても、それは、期待を込めた本当に?という表現になる。他には、あんまり、「わからない」という言葉も使わないんだ。

 

それが、中学生・高校生になってくると、疑う心やわからないっていう表現が出てくるようになる。

 

 

多くの人が成長する過程で、周りを否定したり、疑う心が育っていってしまうんだ。

 

この点で言えば、皮肉なことに、心というものは、成長すると共に衰えていってしまうと考えられる。

 

ピュアな心がどんどん汚れていく。そして、物や人を疑う習性がついていってしまうんだ・・・。

 

もちろん、これには人によって程度の差もあるし、場合によっても変わってくるだろう。実際、常に全てを疑っているような人はあんまりいなくて、ふだんは何でも信じる人でも、特定のことになったら、急に用心深くなるということもある。

 

ここの疑いが生じる場合分けってのが面白いんですよ。

 

まず、疑いとか疑問ってのは、自分が知らない・わからないと感じた時に発生する。さあ、それでここだ。

 

  • 自分が本当に全く知らないことは信じる。
  • 自分がちょっと先入観とか知識があると疑う可能性がものすごい高い。
  • 自分が良く知っていることに関しては、あまり疑いも出てこず、信じもしない。(この場合はわからないと感じない)

 

人は中途半端に知っている物に対しては、疑いを持つ可能性が高くなる。人から噂を聞いていたりとか、どっかでちらっと情報を仕入れているようなことは、警戒心が格段に高くなる。

 

逆に、何も知らなかったら、疑わない。

 

これは、お化けと子供の対応からイメージできるだろう。

 

お化けの存在を知らない子供は、お化けを恐れない。

お化けがいるよって聞かされた子供は、お化けを恐れる。

お化けはいないでしょうと、わかってる大人はお化けを恐れない。

 

 

これまでの話をまとめてみると

 

人は経験を積むにつれ、人や物を疑いやすくなる。まず、疑ってかかれってことも当然のように、言われているしね。で、疑いが発生するような場合ってのは、中途半端に知識があるような状態だ。

 

科学やってる人からすると、疑うことから、発見がある。と言う人もいるかもしれない。

 

ここで、さらに考える必要があるのは、批判的に疑うってことと、前向きに疑問を投げかけること、2つの場合があるんだ。

 

これね、日本語では区別が無いんだな。一応、疑問と疑惑という風に分けることができるんだけど、

 

深く突っ込んでいくと、この日本人の用いている言葉には、肯定的なニュアンスと否定的なニュアンスがごっちゃになって日常に用いられている言葉が沢山ある。

 

疑うっていう表現はその一つだ。英語だったらさ、否定的な場合で suspcious とか doubt と 肯定的な場合で question とか で使い分けができるでしょう。

 

 

ちなみに、僕の書いている文章は、論理的に考える人から見れば、疑いがポンポン湧いてくるだろう(笑) 僕の主張ってほとんどソースもデータも無いものね。直観ですよ。直観。

 

感じたものを感じたように書いている。

人は何故だかスピリチュアルな視点を疑うようにできている。

人は何故だかスピリチュアルな視点を疑うようにできている。


これは、スピリチュアルに限った話でも無いんだが、人は自分がわからないと感じるものに対して、反射的に物を疑ってしまう習性がある。

この習性があるがゆえに、神とか、オーラとか、潜在意識とか、引き寄せとか、一見、我々の5感では知覚できないような話を外から受け取ると、反射的に拒否反応を示してしまうのである。

まず、はじめは自分が知らないことに対する拒否反応が誰でも起こる。


この、拒否反応の出る強さってのは、心の純粋さによって変わってくる。何事も疑う習性が染み付いていると、拒否反応が強く、何事も素直に受け入れる習性があると、拒否反応は出づらい。

ここで話を脱線してみよう。

世の中物を疑う人だらけだ。信じる者はバカを見るとか、物事は疑ってかかるのが当然だとか、人は騙す生き物だとか、信じる方が悪いとか、疑う方が当然だ的な流れをなんとなく感じるわけだ。

で、疑いの強い人ってなんとなく、はたからみてて、何か信じるものがあるように見えませんか?

俺は自分を信じるとか、科学を信じるとか、なんか強固な信じるもの、でもそれは宗教とか哲学とかスピリチュアルとは違う方面の何か。

物を疑う人って、何かを信じているように見えるんだなぁ。

疑うことの逆は信じるものってみんな考えるだろう。ここで、面白いことには、疑いが強い人ほど何かを信じているように見えるのさ。

たぶん、疑いの強い人ってのは、自分の知っている世界、自分の常識、自分の価値観を無意識的に強烈に信じている人なんだろう。

となるとだよ、逆に考えてみると、一見何かを信じているように見えている人ってのは、実は強烈な疑いから生まれているんじゃないかなってことなんだ。

つまりは、
物を疑うこと=自分の感覚している世界のみを強烈に信じること

こう解釈もできるんだね。

物を疑ってかかる人は、結局知らずしらずのうちに、今の自分の価値観、自分の世界に固執しちゃうってこと、これは皆さんもなんとなく感じてきたことだと思う。


そして、疑いは否定や批判を生み出していくのさ。


もう、この場合は自分の価値観を信じるっていうよりも、固執してるって表現の方が正しいかな。


で、話をスピリチュアルの話と人の反射的な拒否反応に戻す。


疑う気持ちが強いと、そこに拒否反応が生まれる。

スピリチュアルな話は、ほとんどの人に対しては、実感がわかない話だ。

となると、スピリチュアルを受け入れられるのは、次のタイプになるだろう。
  • ピュアな心の持ち主
  • 何か生死をさまよったとか、光を感じたとか、ありえないような偶然が起こったとか、特別な体験をした人
  • 疑いながらも、拒絶をせず、理解をしようとする人
疑いの心を無くすか、体験によって自分の世界を広げるか、疑う心を疑うか。

ほとんどの人の場合は、まだまだ上の状況が整っていないんだろう。

今はやっぱり、信じることよりも疑う方が正解だ的な流れがあるから。


イスラム教開祖であるマホメット曰く
同じ迷うのであれば、信じずに疑って迷うよりも、信じて騙されて迷った方がいい。何故なら、信じて救われる可能性があるから。

これは、本当に信ずるものは、迷うことがないということを暗に意味している。

スピリチュアルな感覚を理解していくために、僕は僕の中にある疑いの心を消していきたい。

いただいたコメントより スピリチュアルな視点と哲学的な視点と科学的な視点

id:cawnnyさんから、前回の投稿でコメントをいただいた内容から、スピリチュアルな視点についてふと気になったことがある。

 

スピリチュアルな視点で世界はどう解釈できるのか・・・。科学的な視点とはどう違うのだろうか・・・。などなどである。

 

物事はスピリチュアルな視点、哲学的な視点、科学的な視点、各々の感情が感じた視点の4つの視点から解釈できる。

 
 
今回、スピリチュアルな視点、哲学的な視点、科学的な視点について絞って考えてみよう。
 
自分の感覚としては
 

スピリチュアルな視点は哲学的視点と近く、

哲学的な視点は科学的な視点に近い

 
こんな、イメージだ。一見意味がわからないね。どっちのケースも、近いといえば近いって感じだね。
 
で、続けていくと、スピリチュアルな視点といえば、人間のオーラや死後の世界とか神ってイメージを持っている。
 
感覚が先行する視点だ。
 

で、ここで考えてみたいのが、大本の大本ってなんでしょうってこと。

 
この世界の大本を考えていけば、スピリチュアルな視点と哲学的な視点、科学的な視点の理解がしやすくなる。
 
それで、大本といえば、やっぱり宇宙ですね。あとは生命の神秘。
 
 
宇宙があって人間がいて、生命があるってことで、神がいるってのは間違いない。
 
神ってのは創造主って解釈でもいいんだ。
 
誰かが、こう、宇宙ってのを設計して、生命が生まれるように決めたんだね。
 
そう、決めないとできないんだ。何事も。
 

だから、宇宙には、創造主が決めた、何らかのルールがある。

 
これを物質世界で人間が共通認識できるのが科学だ。
 
物質や研究対象があって、証拠が出せるもの。これが科学と。これも一つの宇宙のルール。
 
哲学は、証拠は出しようが無いんだが、いろいろと観察して、推測してみて、たぶん宇宙のルールってこうなっているんじゃね?ってのが哲学。
 
スピリチュアルな視点は、不思議な体験や感覚があって、たぶんこうなってる。この宇宙のルールはこれだ。って直接答えだせちゃうやつ。
 
 

これらの違い、サンタクロースを信じるか信じないかってことでたとえられるんじゃないかな。

 
サンタクロースがいるっ!信じるとプレゼントがもらえる!って信じれるのがスピリチュアル系。
 
サンタクロースは親だ。親にありがたく感謝し、もらっておこう。   科学系。
 
サンタクロースはいるかもしれないし、いないかもしれない。世界の家庭で、サンタクロースが確実に来ていないとは、言い切ることは難しい。ただ、昨日のプレゼントは親だ。 哲学系
 
 

と、例えをしてみるが、これが、サンタクロースを神って存在に変えるとどうかね?

 
 
神ってのは、この世界がある以上、どっかにいる可能性がある。
 
 
ここだ。この、物質世界では証拠が出せない領域。
 
ここで、あぁ。神はきっといる。人間って神秘だわ。そう、思えるかな?
 
ここでまた考えてみると、
 
神はいる。こうすれば会える。ほらこうやってチャネリングして。。。   スピリチュアル系
 
神がいるっていう証拠を求める。神に会った人がいるというのは幻想の可能性がある。   科学系
 
おそらく、様々な事象から神はいるのだろう。人間も、おそらく気のような思念体である。  直接会えるかはわからないが、神なるものの恩恵を得る方法があるはずた。   哲学系
 
 
と分類できそうだ。
 
 
なかなか神や根本的な物を考えるアプローチへの理解が深められてきた。結局、スピリチュアルな視点からでも哲学的な視点からでも同じようなところに行きつくのだが、そこに至るまでの道筋がちょっと違うんだな。
 
次回は、その思考の道筋が違うとどんな影響を及ぼすか考えていきたい。
 
 
 

人生をつまらないと感じる人は、人生の理解が浅い。ただ、それだけなんだ。

幸せに生きてるかい?

 

これに胸を張ってYES!と答えられる人はごく僅か。

 

生きてはいる、が、なんとなく心の底で、自分の生き方に、周りの社会にモヤモヤしたのを感じたまま生きている人だらけ。

 

僕は、人生を理解して、社会を理解して、科学を理解して、宇宙を理解して、そして、人生や宇宙の法則ってやつを見つけていきたいんだ。

 

それで、そのきっかけを見つけるために、ブログを書いている。こう、ブログを書いてみることで、自分の思考がどんどん整理されていって、自分が知らなかったことが、次々に湧いてくるようになるんだ。

 

じゃあ、人生を理解するとどうなっていくのか?

 

これは、スポーツとか、ゲームで例えると、わかりやすいんだ。

 

将棋を理解していない人が将棋を見たらつまらなく感じる。

 

サッカーを知らない人がサッカーを見ても、あまり面白くないだろう。

 

サッカー選手を理解して、サッカーのルールを理解して、サッカーのチームを理解して、理解を重ねていくことで、サッカーがより楽しめるようになる。

 

人生もそうなんだよ。

 

人生も理解が浅いと全然詰まらないんだ。

 

そう。理解を深めよう。そうすれば、もっともっと人生が面白くなってくる。

 

今の人生がつまらないと感じている人は、要は人生の理解がただ浅い。

 

何をやるにしても、わからないって気持ちがもやもやとやってくるわけだ。

 

それで、わからないから、もやもやして、考えることを放棄してしまう。

 

そこで、しっかりとその自分のわからないと感じる感情に向き合うことだ。

 

この、自分がわからないと感じている時は、自分の人生の理解を深めるチャンスなのだ。

 

人生つまらないと感じている人間は、こういう、チャンスでいつも逃げ出す。いつも思考放棄をしてしまうわけだ。

 

正直、わからないと感じている時は、誰だってつらいなぁと感じますよ。不愉快に感じるでしょう。

 

でも、それを乗り越えるからこそ、わかった後の喜びがある。

 

迷いはそのままにしてもその迷いが永劫に残るが、悟れば一瞬で雲が晴れる。

 

わからないという気持ちから、逃げていると、いつまでも迷いは晴れない。

 

しかし、そのわからないという感情に素直に向き合うことができれば、すぐに、自分の中で、自分は何がわかっていなかったのか、そして、答えを見つけ出すだろう。

 

これは、何をやるにおいても重要。何においても重要なんだから、人生において本当に重要。

 

人生楽しくしたきゃあ、これをやるんだ。わからないという気持ちに立ち向かっていくことだ。そうすりゃあどんどん理解が進み、人生が楽しくなってくる。