批判の気持ち悪さ
- 国会で他者の意見の批判ばかりに注力している光景
- 親や先輩や上司、先生といった立場が上の物が、教育や君のためだという名目を振りかざした批判
- ネットにおける炎上
- ネットでの動画や商品に対して浴びせる批判
- 批判のやりすぎ。批判することが快楽になっている場合が目立つ。
- 言動に対する批判がその人の人格否定につながる場合。
- ただのあら探し
批判の分類
批判のやりすぎ、人格否定
ただのあら探しに関して
中には、ウォーリーを探せをやってるかのごとく、人や物の欠点を指摘する人がいる。
これもまた批判が快感になっている場合だ。間違い探しをして、喜んでいるような状態。
心が未熟な者は、人のあら探しをして喜ぶパターンに陥る。
おわりに
そもそも何のために人は批判をするのか?
最初は悪意がなくとも、むしろ、善意でアドバイス、批評を行っていても気づけば批判になっている場合もある。
大切にするってどうゆうこと?
ふと感じたのが、大切ってどういうことだ?意味わからなくないか?ってことです。
この大切にすることの反対を考えてみると、無駄や粗末というイメージが沸く。
人による言葉のイメージの違いは、誤解につながる。
男にとって、大切にするってのは、守るってことか。女にとって、大切にするってのは、愛するってことか。
原始人にパソコンを与えたらどうなるか?
原始人にパソコンを与えたらどうなるだろうか
なぜなら、彼らはパソコンを創っていないから。
そう、この原始人にパソコンの例は、人間が気がついたら人間でしたっていうことの例えなんだ。
僕ら人間は、人間を創ったわけじゃない。気がついたら人間だった。
余計なことを喋らないためには、感情を抑えることと寡黙さを意識すると良さそう
昨日の 考えられない。考える。考えない。 に引き続いて、今回は喋ることに関して理解を深めたい。まずは漠然と喋ることについて取り上げる。
人と合わせて喋れない。喋る。余計なことを喋らない。
喋った方がいいのか。喋らない方がいいのか。
続きを読む考えられない。考える。考えない。
考えられない。考える。考えない。
批判を恐れる心。そして正当化。
批判を恐れる心。そして正当化。
結果や成果を求める人生
結果や成果を求める人生
しかし、人生というものは、競争がメインなのだろうか?
批判や疑いの裏側にはわからないという気持ちが隠れている
批判や疑いの裏にはわからないという気持ちが隠れている
ここで、批判が目立つのは、野球をよく知らない人間だろう。
あとは、野球好きのおっさんとか。
人が他人に対して文句を言う時、実際に自分がやったことがないことに対して文句を言う場合が多い。
できない人のネガティブ症候群よりもできる人のうぬぼれ症候群の方が厄介
できない人のネガティブ症候群よりもできる人のうぬぼれ症候群の方が厄介
早速ですが、人が上達したり、できるようになると、自惚れることはまず避けられない。
自分はできるって意識の中には、自分は頑張っている、自分はすごいって意識だけじゃない。こいつは、ダメ。あいつは、頑張ってない。っていう、他者を見下す価値観も含まれているんだ。
他者を批判していくことで、心は傲慢になり、自分を正当化して、自惚れていくわけだ。
自惚れて何か悪いことがあるのか
自分が成功するに従い、うぬぼれの種が育ち、傲慢さの花が咲く。
まずは、自惚れや傲慢さってのが知らず知らずの間に勝手に育ってきてしまうってことを理解しよう。
ミスを恐れるのではなく、ミスを用心すること。
ミスを恐れるのではなく、ミスを用心すること。
僕たち、ライフは1機しかないけどさ、ライフはそんな簡単に無くならないじゃない。そんなにミスすることを恐れなくったっていいんだ。大切なのは、ミスを恐れないことと、ミスしてもまた立ち直ること、あとは重大なミスを引き起こさないように用心するってことだ。
まずは、ミスをなんでやたらと恐れてしまうのか、理解してみよう。
ミスを恐れる気持ちってのは、成功への執着から生まれてくる。
人生の理想形ばかり追い求めていると、上を目指すことばかりに意識が集中してしまう。
上へ登れば登るほど、落ちることが怖くなる。失敗を恐れる気持ちが高まってくる。
意識が高いって人ほど、成長意欲が高いって人ほど、それが崩れることを恐れるようになるだろうなぁ。仮に、崩れてもなお、成長し続けようとする意欲が燃え盛る人は本物だ。
そして、上ばかり見てしまう心に加えて、何故だか人は、自分に都合の良いように人生を捉えがちになっちゃうんだなぁ。
これは、用心する心を失ってしまい結果的に重大なミスにつながる可能性がある。
結婚する時も、離婚の可能性があることとか、夫婦の仲が上手くいかない可能性があるとか、その辺のことはあんまり考えてないですよ。
よしんば、ちょっとは、結婚に関する将来の不安を考えることはあっても、関係が悪くなってきたとしたら、お互いどう乗り越えていくかってとこまで考えている人は少ないだろう。
結婚に至るまでの問題点の解消には、二人で全力を出すんだけど、一旦、結婚という関係が出来上がった後は、それが崩れていくと、立て直すのになかなか全力を出していけなくなる・・・。
自分の足元をしっかりと確認せずに、上ばかり見て、自分の都合の良いように人生を考えてしまうから、足元をすくわれるようになる。
ただ、逆に、何もかもを心配しすぎると、何も恐れてできなくなってしまうってことも起こりうる。
用心と心配は近いようで異なるが、はっきりと意識して区別することは難しい。
用心しているつもりが、ただ心配しているだけになる可能性もあるので、要注意だ。
他人のことは、心配になりやすいことに注意しておきたい。
まとめますと、
- 人生大したミスはそうそう無いから、あんまりミスにびくびくしないこと
- ミスを恐れるあまりに新たなミスを生み出すことがあるので、ミスは気にしない
- ミスに対して恐れることはせず、用心する
ミラノすごいやん
純粋な気持ちで生きること
純粋な心を持って生きていきたい。
客観的に自分の考えを観ると、なぜこんなことに固執するのだろうかっていう価値観がいっぱい詰まっている。
こうやって、自分の中に反発する価値観がつもりつもってくる。
これを肝に命じ、自分が何を考えているのか、良く観察するようにしよう。
心の汚れを取り除くことが、純粋な人生への近道である。
汚れたものを綺麗にする場合は、汚れを丁寧に取り除くことが大事。別の色で塗りつぶすわけにもいかない。汚れを取り除くこと、そして、そもそも汚れないようにすることだ。
やれと言われるとやる気が無くなる不思議
やれと言われるとやる気が無くなる不思議
ここでは、周りからやれって言われてやる気を無くすことと、自分でやらなきゃって思ってやる気を無くす2つの要素がコラボしている。
特に、周りからやれと圧力がかかると、どんどん焦るようになる。焦るようになると、心の中ではネガティブなつぶやきがものすごい多くなるんだ。
やらなきゃいけないときほど、集中力を出さなきゃあいけないのに、心の余裕を失って、雑念で心の中が満たされてしまうんだ。
特に、何回も同じような命令を受けると、アレルギーのような拒絶反応が出るようになってくる。
これを抜け出すためには、毎日、少しでも何か継続して、やる習慣をつけることと、このやる気を失う一連のメカニズムを自分なりに良く分析してみることが必要だ。
自分がやれない条件ってなんなのかなって探してみること。
趣味から考えるやる気と強制の関係
例えば、ゲームもさ、周りから激しくやれやれ言われたり、結果を求められたら、モチベーションは下がる。
理想としては、自分のペースで、前向きに取り組んでいくのがいいね。何事もさ。
疑い深い人ができるまで 【コメントからの気づき】
疑い深い人ができるまで コメントからの気づき
前回の人は何故だかスピリチュアルな視点を疑うようにできている。にて、いただいたコメントからの気づき。
前回の投稿では、人は自分がわからないものを疑う習性があると書いたが、中には、自分がわからないと感じていようと疑わない場合もあるし、疑わない人もいることに、コメントをいただいて気づいた。
人は、生まれた時は全てを信じる心がある。全てを受け入れることができる。それが、時が経つにつれ、人に騙されたり、人が騙されているのを見たりして、疑いの気持ちが出るようになってくる。
ホント・・・? 怪しくない・・・?
幼稚園児がこれらの言葉を言っていることを聞いたことがあるだろうか・・・?本当に?という表現はあっても、それは、期待を込めた本当に?という表現になる。他には、あんまり、「わからない」という言葉も使わないんだ。
それが、中学生・高校生になってくると、疑う心やわからないっていう表現が出てくるようになる。
多くの人が成長する過程で、周りを否定したり、疑う心が育っていってしまうんだ。
この点で言えば、皮肉なことに、心というものは、成長すると共に衰えていってしまうと考えられる。
ピュアな心がどんどん汚れていく。そして、物や人を疑う習性がついていってしまうんだ・・・。
もちろん、これには人によって程度の差もあるし、場合によっても変わってくるだろう。実際、常に全てを疑っているような人はあんまりいなくて、ふだんは何でも信じる人でも、特定のことになったら、急に用心深くなるということもある。
ここの疑いが生じる場合分けってのが面白いんですよ。
まず、疑いとか疑問ってのは、自分が知らない・わからないと感じた時に発生する。さあ、それでここだ。
- 自分が本当に全く知らないことは信じる。
- 自分がちょっと先入観とか知識があると疑う可能性がものすごい高い。
- 自分が良く知っていることに関しては、あまり疑いも出てこず、信じもしない。(この場合はわからないと感じない)
人は中途半端に知っている物に対しては、疑いを持つ可能性が高くなる。人から噂を聞いていたりとか、どっかでちらっと情報を仕入れているようなことは、警戒心が格段に高くなる。
逆に、何も知らなかったら、疑わない。
これは、お化けと子供の対応からイメージできるだろう。
お化けの存在を知らない子供は、お化けを恐れない。
お化けがいるよって聞かされた子供は、お化けを恐れる。
お化けはいないでしょうと、わかってる大人はお化けを恐れない。
これまでの話をまとめてみると
人は経験を積むにつれ、人や物を疑いやすくなる。まず、疑ってかかれってことも当然のように、言われているしね。で、疑いが発生するような場合ってのは、中途半端に知識があるような状態だ。
科学やってる人からすると、疑うことから、発見がある。と言う人もいるかもしれない。
ここで、さらに考える必要があるのは、批判的に疑うってことと、前向きに疑問を投げかけること、2つの場合があるんだ。
これね、日本語では区別が無いんだな。一応、疑問と疑惑という風に分けることができるんだけど、
深く突っ込んでいくと、この日本人の用いている言葉には、肯定的なニュアンスと否定的なニュアンスがごっちゃになって日常に用いられている言葉が沢山ある。
疑うっていう表現はその一つだ。英語だったらさ、否定的な場合で suspcious とか doubt と 肯定的な場合で question とか で使い分けができるでしょう。
ちなみに、僕の書いている文章は、論理的に考える人から見れば、疑いがポンポン湧いてくるだろう(笑) 僕の主張ってほとんどソースもデータも無いものね。直観ですよ。直観。
感じたものを感じたように書いている。
人は何故だかスピリチュアルな視点を疑うようにできている。
人は何故だかスピリチュアルな視点を疑うようにできている。
まず、はじめは自分が知らないことに対する拒否反応が誰でも起こる。
ここで話を脱線してみよう。
で、疑いの強い人ってなんとなく、はたからみてて、何か信じるものがあるように見えませんか?
たぶん、疑いの強い人ってのは、自分の知っている世界、自分の常識、自分の価値観を無意識的に強烈に信じている人なんだろう。
物を疑うこと=自分の感覚している世界のみを強烈に信じること
で、話をスピリチュアルの話と人の反射的な拒否反応に戻す。
- ピュアな心の持ち主
- 何か生死をさまよったとか、光を感じたとか、ありえないような偶然が起こったとか、特別な体験をした人
- 疑いながらも、拒絶をせず、理解をしようとする人
疑いの心を無くすか、体験によって自分の世界を広げるか、疑う心を疑うか。
同じ迷うのであれば、信じずに疑って迷うよりも、信じて騙されて迷った方がいい。何故なら、信じて救われる可能性があるから。