ねこ哲の思考メモ

気づきや日常をメモしていく。後に思考を整理するために。

漠然と生きると社会や他人への批判が積もる

日々漠然と生きていると、社会や他者に対する批判や否定の心が積もってくる。

なぜなら、人が漠然と生きる時、自分の人生に対して曖昧でわからないという印象がある一方、批判や否定は具体性が高くわかりやすいからである。

漠然とした人生とは、自分の中でこれが正しいという生き方を決めれずに、ただなんとなく幸せに生きれたらいいなぁとか、楽しければいいやと考える、甘い生き方と判断される生き方である。

この生き方は、一見、今を生きているように見えるが、今の瞬間瞬間を生きるのではなく、今より少し先を見て、目先の楽しさや楽さを追い求めてしまう生き方となる。

明確な目標を持つわけでもなく、本当に今全てを受け入れる覚悟も無い。ただとにかく、なんとなく良い人生が送れたらいいなぁと漠然と期待する生き方。

このような生き方をすると、不思議と社会に対する不満を感じ、他者の欠点が目につくようになる。結果的に、良い人生どころか、社会ってほんと生きづらいところだなぁとか、周りの他人に対して、あんまりちゃんとして生きていないんだなぁといった印象を抱え、人生ってあまりつまらないものだなぁ、辛いものだなぁと漠然と感じるようになる。

そうして、人生面白くないなぁと感じるようになると、人生をもっと良くしなきゃいけないなぁと考えはじめる。

そして、人生をもっと良くしたいと考えると、周りに対して、もっと良いところを見つめるようにするとか、やりたいこととか明確な目標を意識して生きるようにってアドバイスと出会う。

それでも、他人に対して良いところを見つめようと意識しても、数日経つと、やっぱり悪いところに目がいくようになってしまう。

明確な目標を持とうと思っても、様々なメリットデメリットとか価値とかリスクを考えはじめてしまって、自分が本当に受け入れられるような目標を立てることができない。


漠然と生きてしまうと、物や人、社会の価値観を疑う姿勢が知らず知らずのうちに身につくようである。

この疑う姿勢が批判や否定へとつながり、批判や否定が迷いへとつながる。いったん批判や否定の姿勢が染み付いてしまうと、明確に目標を決めることや、他人や社会に対して前向きに捉えることに対しても無意識的に疑ってしまう。それと同時に自分自身に対して、目標を決められるのか、前向きな姿勢を維持できるのか、疑ってしまう。

漠然とした生き方と批判の関係はスポーツで考えてみればイメージがつかみやすい。


漠然と野球の練習をしても上達は遅い。自分の中で、上手い選手を見本にしながら、選手としての理想形を決め、そこから、上達のポイントを抽出し、ポイントを意識してトレーニングすることが上達への近道である。

漠然と理想を決めず、あの選手のこれがダメ、この選手のこれがダメと、手当たり次第に欠点を探してみても、なかなか上達しないだろう。漠然と練習しても、周囲との比較に陥り、自分の欠点を平均値からの比較しかできない。このやり方では、常に比較から逃れることができず、曖昧な不安をいつも感じるようになり、選手として大成することがない。


スポーツであれば、自分の理想を抱くことが重要であることをすぐに理解できるが、これを人生に適用しようとしてもすぐに上手くはいかない。


どの人間が理想的なのか、どう生きるのが理想的なのか、自分は何ができるのか、社会では何が求められているのか


様々な価値観が入り混じり、現在の社会に感じる不安定性もあって、どう生きれば良いのか、人は漠然と迷うために、人生を漠然としたものとして捉えてしまう。


結果として、周囲との比較に陥り、環境や他者を批判的に捉えてしまう。


僕はこれまで漠然に生きてきて、周囲との比較に溺れてきた。環境に対して、批判的に捉えて、さもこれが解消すれば今の問題が解決できるかのように、批評を行ってきた。そして、心の中に、批判の意識がどんどん積もってくるのである。


漠然と生きると、様々な問題に対して違和感を感じ、それらにいちいち反論するような思考が頭の中で発生する。しかし、どう生きれば良いかを自分で決めることに抵抗感もある。


これまで生きてきて、人間としての生き方は、イメージがつくものの、社会の中での自分や人間の生き方は今だに漠然としている。


漠然としている裏には迷いとわからないという感覚が含まれている。決めることへの恐れが迷いを生む。

自分が批判的になっていると感じたら、それは自分が迷っているからであると、意識していきたい。





批判の気持ち悪さ

日常的に、僕らは人が批判される光景を目のあたりにする。リアルでも、メディアでも、ネットでも。

なんだろう?この気持ち悪さは。

人を批判しても悪くないという風潮。中には、批判をすることで、他人の欠点を是正するという期待も込められているかもしれない。

が、このような「お前のために言っている」ことには、正当化が混じってくるから、批判はややこしいものとなる。

僕が批判の例として気持ち悪さを感じるのは以下のようなケースである

  • 国会で他者の意見の批判ばかりに注力している光景
  • 親や先輩や上司、先生といった立場が上の物が、教育や君のためだという名目を振りかざした批判
  • ネットにおける炎上
  • ネットでの動画や商品に対して浴びせる批判

このような批判が起きるケースの中で、僕が批判する行為に感じている違和感は次のものだ。

  • 批判のやりすぎ。批判することが快楽になっている場合が目立つ。
  • 言動に対する批判がその人の人格否定につながる場合。
  • ただのあら探し


批判の分類

リアルなのかネットなのか、ネットでは、対面で言う批判と陰で言う批判がある。またネットでも記名なのか匿名なのかで分類ができる。

リアル  対面     アドバイスに見せかけた批判など。集団で攻める場合がある。
リアル  陰     陰口   批判が多い
ネット  記名    批判は少ない
ネット  匿名     批判が多い。

こう分類してみると、陰口や匿名の批判が多いようだ。また、単独で批判できる人は少ない。ネットの記名の場合やリアルの場合は、批判を表に出すことで、自分の信頼や評判が悪くなることを恐れている。

単独で行われる批判は、君のためだとか、お前のためというように、アドバイスに見せかけた批判が行われる。これは、自分の優位な立場を利用して行われる。

結局、批判は、自分が優位あるいは安全な立場を確保して、他人を攻撃する行為となる。


批判のやりすぎ、人格否定


一度批判を始めると、批判をやり過ぎるパターンが多い。人の言動を批判し始めて、過去の言動も追求し、批判の対象の人間の人格否定をはじめる。


これらは、他人の批判をすることにより、自分の中にある攻撃的な本能が発動し、相手をいたぶることに快感を感じはじめるからであると僕は考えている。


ただのあら探しに関して

中には、ウォーリーを探せをやってるかのごとく、人や物の欠点を指摘する人がいる。

これもまた批判が快感になっている場合だ。間違い探しをして、喜んでいるような状態。

心が未熟な者は、人のあら探しをして喜ぶパターンに陥る。


おわりに

今回、僕が日常様々なところで見かける批判に対して、漠然と感じていたことを言葉にした。

僕は、批判自体全てが悪いとは思っていないが、多くのシチュエーションにおいて、他者をいたぶるために批判が用いられており、悪い使われ方が多い。


そもそも何のために人は批判をするのか?

イラっとしたから?

相手の気づいていないことに気づかせてあげたいから?

自分の正しさを主張したいから?

自分の嫌いな人を困らせたいから?


最初は悪意がなくとも、むしろ、善意でアドバイス、批評を行っていても気づけば批判になっている場合もある。


こう、落ち着いて考えると、人の批判は不毛であると感じ、人の批判はやめようと思う。

しかし、実際、人の批判をする時は、心地良さもあり、悪いと思いながらもなかなかやめられない。

特に、集団で特定の対象を批判する場合、集団で意識を共有する一体感と連帯感があり、さらに攻撃対象をいたぶる快感も加わる。

そして、批判は、新たな批判を生み、批判する側も、批判しているのを傍から見る側も、自分が批判される側にまわるときの恐怖を抱く。

負の連鎖を開始させ、促進させる「批判」。。。

批判には気をつけていこう。

大切にするってどうゆうこと?

ふと感じたのが、大切ってどういうことだ?意味わからなくないか?ってことです。

 
僕は自分の時間を大切にしている。
あなた、私のこと大切にしてる?
僕はこの旅の思い出を大切にするよ。
このアイテムは大切だ。
 
実際のアクションを考えた時に、何するの?ってなる。
 
大切にするって、なんだろう?
 
 
大事にするという表現が近い。
 
 

この大切にすることの反対を考えてみると、無駄や粗末というイメージが沸く。

 
大切にすることは、無駄にしないこと。これはなんとなくわかる。時間や物といった、非生物に対して、用いられるニュアンスだ。
 
時間を大切にする。物を大切にする。= 時間を無駄にしない。物を粗末にしない。
 
人に対して用いる場合の大切にすることは、無駄にしないこととは意味が異なってくる。
 
家族を大切にする。
恋人を大切にする。
友達を大切にする。
 
こちらは、必要とするとか、優先するといった表現になるだろうか。人によっては、愛するという表現になるかもしれない。
 

人による言葉のイメージの違いは、誤解につながる。

 
僕は、大切にするって言葉は響きは良いのだが、意味が広すぎて、人との誤解を生みやすいと感じている。
 
例えば、男性が忙しい忙しいと言い、ちょっと不仲になりかけている夫婦がいるとする。
 
女性が私のこと大切?と男性に聞いても、男性と女性で「大切にする」ことのイメージが違うので、女性の望む返答はこないだろう。
 
こうなると、男性は、じゃあ、おれはどうしたらいいんだ?って尋ねる。女性は、わからない。って言うか、仕事を変えろとか、もっと家庭を大切にしてと言う。
 
男性は、家族を大切にしているさ。だから忙しくしているんだと言う。
 
 

男にとって、大切にするってのは、守るってことか。女にとって、大切にするってのは、愛するってことか。

 
そう考えてみると、大切にするってこと、なんとなくイメージがついてきた。
 
まとめると
 
物、お金、時間 の大切にする  =   無駄にしない
男性の人に対する大切にする =  守る
女性の人に対する大切にする =  愛する
 
 
ここで、友達に関しては、ちょっとニュアンスが違うかな。
 
いや、こう、まとめてみたが、あんまり意味がわからなくなってしまった。
 
無駄にしないの、「無駄」も、「大切」に近いぐらい、意味が広いし。。。
 
大切にするってしょっちゅう使うけども、あんまり意味がわからずに使っているものだなぁ。
 
このようななかなか意味が漠然とした表現は、日本の以心伝心や会話の空気を作り出しているのに一役買っているかもしれない。
 
 

原始人にパソコンを与えたらどうなるか?

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原始人にパソコンを与えたらどうなるだろうか

 
今の最新スペックのノートパソコンを原始人に渡す。
 
まず、わけもわからず適当にぐちゃぐちゃ押したり、叩いたりしてぶっ壊すだろう。
 
壊してしまったら、もう1つパソコンを渡す。何回かやるうちに、電源ボタンに気づき、画面がつく。そしてこれに怯える。
 
しばらくすると、わけもわからないまま用いて、壊すかもしれないが、次第次第に使い方を少しずつ理解してくる。
 
まず、どうやったら壊れてしまうのか。というシンプルなところから、キーボードを押すと文字が入力されるということを理解しはじめるだろう。
 
次第にこのノートパソコンに飽きて何もいじらないやつもいれば、夢中にノートパソコンをいじるやつも出るだろう。
 
それでも、いじった所でまだまだ彼らは使いこなせない。少しずつ仕組みを理解していくことはできるだろうが、完全にそのパソコンの仕組みを理解するには数十年以上かかるだろう。膨大な時間と試行錯誤が必要だ。
 

なぜなら、彼らはパソコンを創っていないから。

 
そう。彼らはパソコンを創り出していない。しかも、周りにパソコンについて知る者は皆無である。だから、どの部品がどのような役割になっているか、どのソフトがどのような役割になっているかということを到底理解することができない。
 
壊して、分解して、エラーが出て、壊して、我武者羅にやって直して、という試行錯誤をひたすら続けて、少しずつ少しずつ、部品やソフトの役割を知るだろう。
 
そして、少しずつ理解して理解して、使いこなせるようになっていく。
 
ここまで読むと、僕の言わんとすることがバレバレだと思う。
 

そう、この原始人にパソコンの例は、人間が気がついたら人間でしたっていうことの例えなんだ。

 

僕ら人間は、人間を創ったわけじゃない。気がついたら人間だった。

 
それで、自動である程度生命活動を確保できるような本能なるものはあらかじめ植えつけられている。
 
それにより、人間は生活し、人間は人間を産み出すことができているが、人間が人間を設計して創りだしたわけじゃない。人間の誰もが、人間の創り方を知らない。
 
ここは、誰かが人間や動物を設計したんだろう。多分、その存在は、宇宙の全ての法則から何やら設計したんじゃないかと思う。
 
設計しないと、こんな複雑でありながら、バランスがとれているもの創れないもの。
 
宇宙も。生命体も。
 
ここで誰が設計したのかってのは、色んな宗教で扱われているので、その話はここでは置いておこう。
 
要は、僕ら人間が人間を創ったわけじゃないから、人間に関して知らないことだらけわからないことだってことだ。
 
そして、理解が深まれば深まるほど、人間として、どうすれば自分自身が向上するのか、壊れるのか、変わるのかがわかってくる。
 
例えば、パソコンを設計した技術者であれば、どこをどういじるとどうなるかがわかる。PC本体の部品やソフトの動作が不調である時は、どう処理すれば改善するのかがわかる。
 
これは、人間の例で考えると肉体関係は医学であり、心の関係は心理学や哲学になるだろう。
 
どうなったら、どうなる。どうなったら、どうなる。このような試行錯誤を人類は常に繰り返している。
 
病気が発症したら、治療をする。戦争が起きたら、もう戦争は起きないように制度を整える。喧嘩をして、仲直りする。いたずらして、怒られる。ネガティブに考えると、人生がうまくいかなくなる。人にしつこくすると嫌われる。
 
いろんな困難を乗り越えて、いろんな過ちを犯して、試行錯誤を通して、人は、人間を、人生を理解していく。
 
原始人にパソコンを与えると、試行錯誤になるように・・・。 わからないから、ミスすることもあるだろう。自分や人間関係を壊してしまうこともあるだろう。 
 
ミスしても、壊してもそこから学ぶことだ。そのミスを通して、その裏側にある原因、仕組みを理解していくことだ。
 
あー。俺が全然人間、人生について理解してないのは、俺が人間創ったわけじゃないからだーって捉えられると気が楽になりますよ!そうなると、謙虚の心が芽生えていく。
 

余計なことを喋らないためには、感情を抑えることと寡黙さを意識すると良さそう

昨日の  考えられない。考える。考えない。 に引き続いて、今回は喋ることに関して理解を深めたい。まずは漠然と喋ることについて取り上げる。

 

喋られない。喋る。喋らない。
 
表現を変えて

人と合わせて喋れない。喋る。余計なことを喋らない。

こう捉えてみる。
 
喋る。話をする。これらの行為は、コミュニケーションの要であることは言うまでもないが、実際にどう振舞ったら良いのかなかなかわかりづらい。
 

喋った方がいいのか。喋らない方がいいのか。

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考えられない。考える。考えない。

考えられない。考える。考えない。
 
僕は、人のあらゆる行動において、考えられない。考える。考えない。といった3段階の状態があることを感じている。
 
他には、
食べられない。食べる。食べない。
喋れない。喋る。喋らない。
力を入れられない。力を入れる。力を入れない。
寝れない。寝る。寝ない。
 
ここで、僕は3つめの段階に注目している。3つ目の段階に、少し言葉を足してみよう。
 
考えられない。考える。余計なことを考えない。
食べられない。食べる。余計な量を食べない。
喋れない。喋る。余計なことを喋らない。
力を入れられない。力を入れる。余計な力を入れない。
寝れない。寝る。余計な時間は寝ない。
 
こう言葉を変えてみると、イメージがしやすくなると思う。
 
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批判を恐れる心。そして正当化。

批判を恐れる心。そして正当化。
 
僕は、心の底で、他者からの批判を恐れている。
 
自分の行う仕事に対して、自分はここまでやったいるから、これだけやっているからいいだろう。という意識がつきまとってくる。
 
この意識から、自分は外部からの批判を恐れると同時に、自分自身を正当化していることがわかる。
 
なんとなく意識の底で、批判を受けたときに、
 
じゃあ君はできるのかな?
とか
君はそう言うが、君の話にも欠点がある。
 
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結果や成果を求める人生

結果や成果を求める人生
 
人生において、何をするにも結果が大切、いくら頑張ったって結果が出なければ仕方ない。こう考えている人は多くはないだろうか。
 
 
実際、スポーツや将棋のようなルールが明確である競争、競技の場であれば結果を求めるだろう。
 
あとは、受験や資格など、一律の条件下で競うのであれば、結果を求めるのは妥当である。
 
しかし、人生というものは、競争がメインなのだろうか?
 
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批判や疑いの裏側にはわからないという気持ちが隠れている

批判や疑いの裏にはわからないという気持ちが隠れている

僕らは、他人に対して、情報に対して反射的に疑ったり、批判してしまう傾向がある。

以前、(疑い深い人ができるまで)にて、疑うことと、わからないという感情に関して少し触れたが、今回は批判する心も含めて考えていきたい。

人は、不思議なことに、ネガティブに生きなさいとか、人を批判して生きなさい、と教えられていないのに、否定的に、批判的に生きてしまう傾向がある。

この理由として、無知であるがゆえに、わからないという感情があるがゆえに否定や批判が生まれるのではないかと考えられるのである。


スポーツの観戦をイメージしていただきたい。

例えば、野球を観戦していて、プロの選手のミスに対して批判をする場合を考える。
ここで、批判が目立つのは、野球をよく知らない人間だろう。

あとは、野球好きのおっさんとか。


どちらも、プレーする人の目線に立つイメージができない人だ。プレーする人の感覚がわからない。

なぜ、どのようにミスが生まれるのか、その過程や理由がわかるとき、批判的な心は消えていく。

人が他人に対して文句を言う時、実際に自分がやったことがないことに対して文句を言う場合が多い。

否定や批判の心を無くすには、相手の立場に立ってイメージすること。これにより、自分がそれまでわからなかったことに、気づくことができるようになる。

我々は物事の過程を知っていれば、批判や否定をする心はおさまる。対して、物事の過程を知らず、結果を突きつけられると、批判や否定の心が湧いてくる。過程を知らないから。

今の現代はどうだろうか。結果ばかり求められるような社会ではないだろうか。否定や批判があふれてやしないだろうか。過程は大事にされているだろうか。


できない人のネガティブ症候群よりもできる人のうぬぼれ症候群の方が厄介

できない人のネガティブ症候群よりもできる人のうぬぼれ症候群の方が厄介

 
できない人が、ネガティブ気味な傾向があるとか、言い訳しちゃうとか、その辺の傾向はもうみんなだいたい感じ取ってきている昨今、ポジティブシンキングをはじめとしたできる人になるためのメソッドが本だったりインターネットのあちらこちらで紹介されております。
 
さてさて、ここで表題にもありますように、めでたくポジティブになってきて、いわゆるできる人ってのが量産されるようになってきたのですが、ここでまた困ったことが発生している。今回はできる人特有の傾向、うぬぼれってやつの理解を深めていきたい。
 
たぶんこれはみんな感じている。いわゆるできる人やいわゆる成功してるっぽい人には、プライドや傲慢さ、自惚れの匂いがぷんぷんすることを。
 
ここで、真にできる人については除外していこう。
 
真にできる人は、自らが自惚れることを克服し、積極的で向上心がありながら、素直で謙虚さ、純粋さを兼ね備えた、全く臭みの無い人だ。
 
ここへ至るには、自惚れを克服することが必要だ。
 
ということで、自惚れを理解することにしよう。
 
早速ですが、人が上達したり、できるようになると、自惚れることはまず避けられない。
 
なぜなら、人ができるって感じるとき、そこに比較と批判の概念があるから。過去の自分や周囲と比べて、できるようになったなと、こう感じる時、心は緩む。
 
自分はできるって意識の中には、自分は頑張っている、自分はすごいって意識だけじゃない。こいつは、ダメ。あいつは、頑張ってない。っていう、他者を見下す価値観も含まれているんだ。
 
これは、別に自分ができないと感じる人でも感じちゃうことなんだけど、自分ができるって感じている人ほど、強く感じてしまうことなんだ。
 
真面目な人からすると、不真面目な人が目に付くし、頑張っている人からすると、頑張っていない人が目に付いてしまう。
 
そして、他者を批判する心とその他者を見て、自分はいけていると正当化する心が生まれてくる。
 
他者を批判していくことで、心は傲慢になり、自分を正当化して、自惚れていくわけだ。
 
普通に生きて、普通に努力していても、この自惚れるスパイラルに陥ることを避けるのは難しい。
 
自惚れればもっと他者を見下す心が強くなり、心が狭くなっていく。
 
 
もちろん、この自惚れにはレベルがある。もう、全面的に自慢が出てくる人と、そんなに自慢しないんだけど人を見下しているのがなんとなくわかる人がいる。
 
 
自惚れて何か悪いことがあるのか
 
自惚れる人の立場が弱者なのか強者なのかで状況は変わる。できる人は権力を有している可能性が高い。
 
弱者が自惚れた場合、そこには害は少ない。ただ、周りの人間が離れていくだけだ。
 
強者の場合、これは厄介な問題に結びつく場合がある。
 
自惚れると、傲慢さと組み合わさり、自分の価値観に合わぬものを排斥しようとする可能性がある。
 
権力と傲慢さは組み合わさるとタチが悪いが、だいたいいつもセットで他者を苦しめるようになる。
 
これは不思議だ。今、傲慢に見えるような人ももともとはそうではなかったろうに。。。
 
 
自分が成功するに従い、うぬぼれの種が育ち、傲慢さの花が咲く。
 
これを気をつけねばならない。雑草を刈り取るがごとく、己の未熟な心を根絶やしにしていかねばならぬ。
 
僕がこうやって文章を書いていても、その思考の裏側には、うぬぼれの心がやってくる。
 
ああ。自分、人間の思考に関していろんなことに気づけるなぁ。こういうことに気づけない人間は沢山いるんだろうなぁ。ってね。
 
この意識があることに気づき、それを消していきたい。
 
傲慢さはいったいどこからやってくるのか。うぬぼれはどうして出てくるのか。
 
これの背後には、人間の感情、特に、自分を特別視したいという欲求があるのだろう。
 
心理学の本にはこの辺のことは研究されているだろう。しかし、実際にどうやって消していくか。
 
自分が純粋に成長しながらも、全く嫌味の無いような、人間。
 
まさに宮沢賢治雨ニモ負ケズで出てくるような、素朴な生き方が僕の一つの理想だ。
 
まずは、自惚れや傲慢さってのが知らず知らずの間に勝手に育ってきてしまうってことを理解しよう。

ミスを恐れるのではなく、ミスを用心すること。

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ミスを恐れるのではなく、ミスを用心すること。

 

僕たち、ライフは1機しかないけどさ、ライフはそんな簡単に無くならないじゃない。そんなにミスすることを恐れなくったっていいんだ。大切なのは、ミスを恐れないことと、ミスしてもまた立ち直ること、あとは重大なミスを引き起こさないように用心するってことだ。

 

まずは、ミスをなんでやたらと恐れてしまうのか、理解してみよう。

 

ミスを恐れる気持ちってのは、成功への執着から生まれてくる。

 

人生の理想形ばかり追い求めていると、上を目指すことばかりに意識が集中してしまう。

 

上へ登れば登るほど、落ちることが怖くなる。失敗を恐れる気持ちが高まってくる。

 

意識が高いって人ほど、成長意欲が高いって人ほど、それが崩れることを恐れるようになるだろうなぁ。仮に、崩れてもなお、成長し続けようとする意欲が燃え盛る人は本物だ。

 

そして、上ばかり見てしまう心に加えて、何故だか人は、自分に都合の良いように人生を捉えがちになっちゃうんだなぁ。

 

これは、用心する心を失ってしまい結果的に重大なミスにつながる可能性がある。

 

結婚する時も、離婚の可能性があることとか、夫婦の仲が上手くいかない可能性があるとか、その辺のことはあんまり考えてないですよ。

 

よしんば、ちょっとは、結婚に関する将来の不安を考えることはあっても、関係が悪くなってきたとしたら、お互いどう乗り越えていくかってとこまで考えている人は少ないだろう。

 

結婚に至るまでの問題点の解消には、二人で全力を出すんだけど、一旦、結婚という関係が出来上がった後は、それが崩れていくと、立て直すのになかなか全力を出していけなくなる・・・。

 

自分の足元をしっかりと確認せずに、上ばかり見て、自分の都合の良いように人生を考えてしまうから、足元をすくわれるようになる。

 

ただ、逆に、何もかもを心配しすぎると、何も恐れてできなくなってしまうってことも起こりうる。


用心と心配は近いようで異なるが、はっきりと意識して区別することは難しい。


用心しているつもりが、ただ心配しているだけになる可能性もあるので、要注意だ。


他人のことは、心配になりやすいことに注意しておきたい。 

 

まとめますと、

  • 人生大したミスはそうそう無いから、あんまりミスにびくびくしないこと
  • ミスを恐れるあまりに新たなミスを生み出すことがあるので、ミスは気にしない
  • ミスに対して恐れることはせず、用心する

ミラノすごいやん


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今、研究の訪問でイタリアのミラノにきています。

写真はミラノ大聖堂。14世紀に建設開始され、そこから完成までに500年をかけた、世界で2番目にでかい寺院。

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街並みがおしゃれである。

現在、訪問しているのはミラノ工科大学という、イタリアでトップレベルの工科大学。

イタリアの先生方は皆陽気で、やさしく、スタイルが良い。


このミラノ工科大学の学生と先生は英語が上手い。喋っている単語のレベルはそう高いわけでもないかもしれないが、ネイティブよりちょっと遅いぐらいのスピードで会話ができるのである。

プレゼンテーションも上手い。

とても良い刺激になっています。

こんな刺激を受けていると、周囲の環境とか全く気にせずに論文を書いていかなきゃいかんなって思う。

論文を書いて、プレゼンテーションを鍛える。

当たり前のことを、当たり前のように努力する。

そんな良い見本を見せていただくことができた。

イタリアの人に対して感じたことは、噂に違わず、彼らは喋り好きな人が多いということだ。こちらから話かけなくても、喋り続けてくれるため、とても、楽しく過ごせる。

いいねぇ。ミラノ。


純粋な気持ちで生きること

純粋な心を持って生きていきたい。


人生こう生きたら正しいとか、こうするのがすごいとか、何も考えることなく、ただ無邪気に生きていきたい。

しかし、なかなかそうは生きれない。自分の心の中には、あれがすごいとか、これが正しいといった価値観が山のようにたまっている。

客観的に自分の考えを観ると、なぜこんなことに固執するのだろうかっていう価値観がいっぱい詰まっている。

どこから、それらの価値観がやってきたのか。一つは外の世界から。これをやると正しい、あれをやると良いんだよって刺激を僕らは絶え間無く受けている。

もう一つは自分の中から。外から受けた刺激に対して、批判的に感じてきた価値観。例えば、教育は厳しくするのが正しいという価値観があるとする。それに対して、は?教育を厳しくしても、場合によるだろ?ただ厳しくすりゃあいいってもんじゃない。って、反発するような意見が出てくる。

こうやって、自分の中に反発する価値観がつもりつもってくる。

理想としては、それらの価値観を良く吟味して、どういう場合はどうすれば良いのか、どういう条件だと、主張が妥当なのか、確認していく必要がある。

これは、いわば心の掃除だ。そして、なるべくポジティブに向かうように、自分の価値観をコントロールしていこう。

周りからきた情報をただ否定してしまうと、自分の中に傲慢さが生まれていく。

批判を繰り返していてはいけない。

これを肝に命じ、自分が何を考えているのか、良く観察するようにしよう。

心の汚れを取り除くことが、純粋な人生への近道である。


汚れたものを綺麗にする場合は、汚れを丁寧に取り除くことが大事。別の色で塗りつぶすわけにもいかない。汚れを取り除くこと、そして、そもそも汚れないようにすることだ。

やれと言われるとやる気が無くなる不思議

やれと言われるとやる気が無くなる不思議


多くの人は体験しているはずだ。これをやりなさいと言われると、ものすごいやる気が無くなることがある現象を。


そして、たいていそういう場合には、もっと、やれっていうプレッシャーがかかってくる。

で、やる気が出ない。

やらなきゃと思う。

やる気が出ない。

時間が過ぎていく。

やばい。

やらなきゃと思う。

やる気が出ない。

あー。もう、自分はなんでこんなことやってんだ。こんなこと意味あるのか?

と、意味を考えはじめる。

でも、やる気が出ない。むしろ萎える。

なんで自分はこんなにぎりぎりになるまでやらないんだろうって考える。

次はもっと早くからやろうって。

で、また同じことが起きる。

これはあるあるだろう。


ここでは、周りからやれって言われてやる気を無くすことと、自分でやらなきゃって思ってやる気を無くす2つの要素がコラボしている。


シンプルに考えてみると、ここは心の余裕と、過去の習慣から考えることができるだろう。


やらなきゃやらなきゃと思えば思うほど、そして、周りからやれ、やれ、と言われるほど、心は余裕を失っていく。


特に、周りからやれと圧力がかかると、どんどん焦るようになる。焦るようになると、心の中ではネガティブなつぶやきがものすごい多くなるんだ。

いついつまでにやらなきゃいけないとか、できなきゃどうなるとか。

心ってもんは、余計なことを考えれば考えるほど、パフォーマンスが落ちていくことに、多くの人は気づいていない。

パソコンで、アプリやソフトを立ち上げまくるとパフォーマンスが落ちるのと同様に。

やらなきゃいけないときほど、集中力を出さなきゃあいけないのに、心の余裕を失って、雑念で心の中が満たされてしまうんだ。

目の前のことに集中できなくなる。


で、たいていの年頃になると、人からやれって強制されると、反射的に拒否反応が起きるようになる。

なんで自分が?

わかってるよ。

今、やろうと思っていたところ。

この辺のやりとりは、親から来る命令で起きやすい。親からの強制ってのは、ずーっと過去から続いているからね。


特に、何回も同じような命令を受けると、アレルギーのような拒絶反応が出るようになってくる。

こうなってくると、やれと言われてやる気を失うし、しかも、その自分のやる気が出ない原因を周りのせいにし出してしまう。

もちろん、作業は全然はかどらない。


これを抜け出すためには、毎日、少しでも何か継続して、やる習慣をつけることと、このやる気を失う一連のメカニズムを自分なりに良く分析してみることが必要だ。

もし、あなたが、やならきゃいけないと思うことをやれない人だとしたら、それは別にあなたが悪いとか、あなたの周りが悪いとか、そういうことは無いんだ。

みんな、いくつかの条件が整ってしまうと、やれなくなってしまう。努力できなくなってしまうんだ。

自分がやれない条件ってなんなのかなって探してみること。


ヒントは、心の余裕と、周りから受けるプレッシャーとその繰り返し、あとは今の習慣だ。

これが理解できていけば、心が楽になって来るはずさ。そうすれば、前向きに楽しめるようになってくる。


趣味から考えるやる気と強制の関係


趣味ってさ、自分でやりたいように、自分のペースでやってるから面白いし、自分でもやろうって気になるでしょう。それで、すぐにやることができる。

周りから、やれってあんまり言われないよね。それにあまり結果も求められることがない。

例えば、ゲームもさ、周りから激しくやれやれ言われたり、結果を求められたら、モチベーションは下がる。

つまらないとか、飽きたと感じたゲームをやり続けろっていわれたら、すこぶる苦痛になってくるね。


この趣味で挙げたのも、自分が好きでやるようなものも、条件次第では苦痛に変わるってことさ。


理想としては、自分のペースで、前向きに取り組んでいくのがいいね。何事もさ。

そうすれば心もリラックスしながら、楽しみつつ取り組むことができる。

疑い深い人ができるまで 【コメントからの気づき】 

疑い深い人ができるまで コメントからの気づき 

 

前回の人は何故だかスピリチュアルな視点を疑うようにできている。にて、いただいたコメントからの気づき。

 

前回の投稿では、人は自分がわからないものを疑う習性があると書いたが、中には、自分がわからないと感じていようと疑わない場合もあるし、疑わない人もいることに、コメントをいただいて気づいた。

 

人は、生まれた時は全てを信じる心がある。全てを受け入れることができる。それが、時が経つにつれ、人に騙されたり、人が騙されているのを見たりして、疑いの気持ちが出るようになってくる。

 

ホント・・・? 怪しくない・・・?

 

幼稚園児がこれらの言葉を言っていることを聞いたことがあるだろうか・・・?本当に?という表現はあっても、それは、期待を込めた本当に?という表現になる。他には、あんまり、「わからない」という言葉も使わないんだ。

 

それが、中学生・高校生になってくると、疑う心やわからないっていう表現が出てくるようになる。

 

 

多くの人が成長する過程で、周りを否定したり、疑う心が育っていってしまうんだ。

 

この点で言えば、皮肉なことに、心というものは、成長すると共に衰えていってしまうと考えられる。

 

ピュアな心がどんどん汚れていく。そして、物や人を疑う習性がついていってしまうんだ・・・。

 

もちろん、これには人によって程度の差もあるし、場合によっても変わってくるだろう。実際、常に全てを疑っているような人はあんまりいなくて、ふだんは何でも信じる人でも、特定のことになったら、急に用心深くなるということもある。

 

ここの疑いが生じる場合分けってのが面白いんですよ。

 

まず、疑いとか疑問ってのは、自分が知らない・わからないと感じた時に発生する。さあ、それでここだ。

 

  • 自分が本当に全く知らないことは信じる。
  • 自分がちょっと先入観とか知識があると疑う可能性がものすごい高い。
  • 自分が良く知っていることに関しては、あまり疑いも出てこず、信じもしない。(この場合はわからないと感じない)

 

人は中途半端に知っている物に対しては、疑いを持つ可能性が高くなる。人から噂を聞いていたりとか、どっかでちらっと情報を仕入れているようなことは、警戒心が格段に高くなる。

 

逆に、何も知らなかったら、疑わない。

 

これは、お化けと子供の対応からイメージできるだろう。

 

お化けの存在を知らない子供は、お化けを恐れない。

お化けがいるよって聞かされた子供は、お化けを恐れる。

お化けはいないでしょうと、わかってる大人はお化けを恐れない。

 

 

これまでの話をまとめてみると

 

人は経験を積むにつれ、人や物を疑いやすくなる。まず、疑ってかかれってことも当然のように、言われているしね。で、疑いが発生するような場合ってのは、中途半端に知識があるような状態だ。

 

科学やってる人からすると、疑うことから、発見がある。と言う人もいるかもしれない。

 

ここで、さらに考える必要があるのは、批判的に疑うってことと、前向きに疑問を投げかけること、2つの場合があるんだ。

 

これね、日本語では区別が無いんだな。一応、疑問と疑惑という風に分けることができるんだけど、

 

深く突っ込んでいくと、この日本人の用いている言葉には、肯定的なニュアンスと否定的なニュアンスがごっちゃになって日常に用いられている言葉が沢山ある。

 

疑うっていう表現はその一つだ。英語だったらさ、否定的な場合で suspcious とか doubt と 肯定的な場合で question とか で使い分けができるでしょう。

 

 

ちなみに、僕の書いている文章は、論理的に考える人から見れば、疑いがポンポン湧いてくるだろう(笑) 僕の主張ってほとんどソースもデータも無いものね。直観ですよ。直観。

 

感じたものを感じたように書いている。