人は何故だかスピリチュアルな視点を疑うようにできている。
人は何故だかスピリチュアルな視点を疑うようにできている。
これは、スピリチュアルに限った話でも無いんだが、人は自分がわからないと感じるものに対して、反射的に物を疑ってしまう習性がある。
この習性があるがゆえに、神とか、オーラとか、潜在意識とか、引き寄せとか、一見、我々の5感では知覚できないような話を外から受け取ると、反射的に拒否反応を示してしまうのである。
まず、はじめは自分が知らないことに対する拒否反応が誰でも起こる。
この、拒否反応の出る強さってのは、心の純粋さによって変わってくる。何事も疑う習性が染み付いていると、拒否反応が強く、何事も素直に受け入れる習性があると、拒否反応は出づらい。
ここで話を脱線してみよう。
世の中物を疑う人だらけだ。信じる者はバカを見るとか、物事は疑ってかかるのが当然だとか、人は騙す生き物だとか、信じる方が悪いとか、疑う方が当然だ的な流れをなんとなく感じるわけだ。
で、疑いの強い人ってなんとなく、はたからみてて、何か信じるものがあるように見えませんか?
俺は自分を信じるとか、科学を信じるとか、なんか強固な信じるもの、でもそれは宗教とか哲学とかスピリチュアルとは違う方面の何か。
物を疑う人って、何かを信じているように見えるんだなぁ。
疑うことの逆は信じるものってみんな考えるだろう。ここで、面白いことには、疑いが強い人ほど何かを信じているように見えるのさ。
たぶん、疑いの強い人ってのは、自分の知っている世界、自分の常識、自分の価値観を無意識的に強烈に信じている人なんだろう。
となるとだよ、逆に考えてみると、一見何かを信じているように見えている人ってのは、実は強烈な疑いから生まれているんじゃないかなってことなんだ。
つまりは、
物を疑うこと=自分の感覚している世界のみを強烈に信じること
こう解釈もできるんだね。
物を疑ってかかる人は、結局知らずしらずのうちに、今の自分の価値観、自分の世界に固執しちゃうってこと、これは皆さんもなんとなく感じてきたことだと思う。
そして、疑いは否定や批判を生み出していくのさ。
もう、この場合は自分の価値観を信じるっていうよりも、固執してるって表現の方が正しいかな。
で、話をスピリチュアルの話と人の反射的な拒否反応に戻す。
疑う気持ちが強いと、そこに拒否反応が生まれる。
スピリチュアルな話は、ほとんどの人に対しては、実感がわかない話だ。
となると、スピリチュアルを受け入れられるのは、次のタイプになるだろう。
- ピュアな心の持ち主
- 何か生死をさまよったとか、光を感じたとか、ありえないような偶然が起こったとか、特別な体験をした人
- 疑いながらも、拒絶をせず、理解をしようとする人
疑いの心を無くすか、体験によって自分の世界を広げるか、疑う心を疑うか。
ほとんどの人の場合は、まだまだ上の状況が整っていないんだろう。
今はやっぱり、信じることよりも疑う方が正解だ的な流れがあるから。
イスラム教開祖であるマホメット曰く
同じ迷うのであれば、信じずに疑って迷うよりも、信じて騙されて迷った方がいい。何故なら、信じて救われる可能性があるから。
これは、本当に信ずるものは、迷うことがないということを暗に意味している。
スピリチュアルな感覚を理解していくために、僕は僕の中にある疑いの心を消していきたい。