批判の気持ち悪さ
日常的に、僕らは人が批判される光景を目のあたりにする。リアルでも、メディアでも、ネットでも。
なんだろう?この気持ち悪さは。
人を批判しても悪くないという風潮。中には、批判をすることで、他人の欠点を是正するという期待も込められているかもしれない。
が、このような「お前のために言っている」ことには、正当化が混じってくるから、批判はややこしいものとなる。
僕が批判の例として気持ち悪さを感じるのは以下のようなケースである
- 国会で他者の意見の批判ばかりに注力している光景
- 親や先輩や上司、先生といった立場が上の物が、教育や君のためだという名目を振りかざした批判
- ネットにおける炎上
- ネットでの動画や商品に対して浴びせる批判
このような批判が起きるケースの中で、僕が批判する行為に感じている違和感は次のものだ。
- 批判のやりすぎ。批判することが快楽になっている場合が目立つ。
- 言動に対する批判がその人の人格否定につながる場合。
- ただのあら探し
批判の分類
リアルなのかネットなのか、ネットでは、対面で言う批判と陰で言う批判がある。またネットでも記名なのか匿名なのかで分類ができる。
リアル 対面 アドバイスに見せかけた批判など。集団で攻める場合がある。
リアル 陰 陰口 批判が多い
ネット 記名 批判は少ない
ネット 匿名 批判が多い。
こう分類してみると、陰口や匿名の批判が多いようだ。また、単独で批判できる人は少ない。ネットの記名の場合やリアルの場合は、批判を表に出すことで、自分の信頼や評判が悪くなることを恐れている。
単独で行われる批判は、君のためだとか、お前のためというように、アドバイスに見せかけた批判が行われる。これは、自分の優位な立場を利用して行われる。
結局、批判は、自分が優位あるいは安全な立場を確保して、他人を攻撃する行為となる。
批判のやりすぎ、人格否定
一度批判を始めると、批判をやり過ぎるパターンが多い。人の言動を批判し始めて、過去の言動も追求し、批判の対象の人間の人格否定をはじめる。
これらは、他人の批判をすることにより、自分の中にある攻撃的な本能が発動し、相手をいたぶることに快感を感じはじめるからであると僕は考えている。
ただのあら探しに関して
中には、ウォーリーを探せをやってるかのごとく、人や物の欠点を指摘する人がいる。
これもまた批判が快感になっている場合だ。間違い探しをして、喜んでいるような状態。
心が未熟な者は、人のあら探しをして喜ぶパターンに陥る。
おわりに
今回、僕が日常様々なところで見かける批判に対して、漠然と感じていたことを言葉にした。
僕は、批判自体全てが悪いとは思っていないが、多くのシチュエーションにおいて、他者をいたぶるために批判が用いられており、悪い使われ方が多い。
そもそも何のために人は批判をするのか?
イラっとしたから?
相手の気づいていないことに気づかせてあげたいから?
自分の正しさを主張したいから?
自分の嫌いな人を困らせたいから?
最初は悪意がなくとも、むしろ、善意でアドバイス、批評を行っていても気づけば批判になっている場合もある。
こう、落ち着いて考えると、人の批判は不毛であると感じ、人の批判はやめようと思う。
しかし、実際、人の批判をする時は、心地良さもあり、悪いと思いながらもなかなかやめられない。
特に、集団で特定の対象を批判する場合、集団で意識を共有する一体感と連帯感があり、さらに攻撃対象をいたぶる快感も加わる。
そして、批判は、新たな批判を生み、批判する側も、批判しているのを傍から見る側も、自分が批判される側にまわるときの恐怖を抱く。
負の連鎖を開始させ、促進させる「批判」。。。
批判には気をつけていこう。