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ねこ哲の思考メモ

気づきや日常をメモしていく。後に思考を整理するために。

漠然と生きると社会や他人への批判が積もる

日々漠然と生きていると、社会や他者に対する批判や否定の心が積もってくる。

なぜなら、人が漠然と生きる時、自分の人生に対して曖昧でわからないという印象がある一方、批判や否定は具体性が高くわかりやすいからである。

漠然とした人生とは、自分の中でこれが正しいという生き方を決めれずに、ただなんとなく幸せに生きれたらいいなぁとか、楽しければいいやと考える、甘い生き方と判断される生き方である。

この生き方は、一見、今を生きているように見えるが、今の瞬間瞬間を生きるのではなく、今より少し先を見て、目先の楽しさや楽さを追い求めてしまう生き方となる。

明確な目標を持つわけでもなく、本当に今全てを受け入れる覚悟も無い。ただとにかく、なんとなく良い人生が送れたらいいなぁと漠然と期待する生き方。

このような生き方をすると、不思議と社会に対する不満を感じ、他者の欠点が目につくようになる。結果的に、良い人生どころか、社会ってほんと生きづらいところだなぁとか、周りの他人に対して、あんまりちゃんとして生きていないんだなぁといった印象を抱え、人生ってあまりつまらないものだなぁ、辛いものだなぁと漠然と感じるようになる。

そうして、人生面白くないなぁと感じるようになると、人生をもっと良くしなきゃいけないなぁと考えはじめる。

そして、人生をもっと良くしたいと考えると、周りに対して、もっと良いところを見つめるようにするとか、やりたいこととか明確な目標を意識して生きるようにってアドバイスと出会う。

それでも、他人に対して良いところを見つめようと意識しても、数日経つと、やっぱり悪いところに目がいくようになってしまう。

明確な目標を持とうと思っても、様々なメリットデメリットとか価値とかリスクを考えはじめてしまって、自分が本当に受け入れられるような目標を立てることができない。


漠然と生きてしまうと、物や人、社会の価値観を疑う姿勢が知らず知らずのうちに身につくようである。

この疑う姿勢が批判や否定へとつながり、批判や否定が迷いへとつながる。いったん批判や否定の姿勢が染み付いてしまうと、明確に目標を決めることや、他人や社会に対して前向きに捉えることに対しても無意識的に疑ってしまう。それと同時に自分自身に対して、目標を決められるのか、前向きな姿勢を維持できるのか、疑ってしまう。

漠然とした生き方と批判の関係はスポーツで考えてみればイメージがつかみやすい。


漠然と野球の練習をしても上達は遅い。自分の中で、上手い選手を見本にしながら、選手としての理想形を決め、そこから、上達のポイントを抽出し、ポイントを意識してトレーニングすることが上達への近道である。

漠然と理想を決めず、あの選手のこれがダメ、この選手のこれがダメと、手当たり次第に欠点を探してみても、なかなか上達しないだろう。漠然と練習しても、周囲との比較に陥り、自分の欠点を平均値からの比較しかできない。このやり方では、常に比較から逃れることができず、曖昧な不安をいつも感じるようになり、選手として大成することがない。


スポーツであれば、自分の理想を抱くことが重要であることをすぐに理解できるが、これを人生に適用しようとしてもすぐに上手くはいかない。


どの人間が理想的なのか、どう生きるのが理想的なのか、自分は何ができるのか、社会では何が求められているのか


様々な価値観が入り混じり、現在の社会に感じる不安定性もあって、どう生きれば良いのか、人は漠然と迷うために、人生を漠然としたものとして捉えてしまう。


結果として、周囲との比較に陥り、環境や他者を批判的に捉えてしまう。


僕はこれまで漠然に生きてきて、周囲との比較に溺れてきた。環境に対して、批判的に捉えて、さもこれが解消すれば今の問題が解決できるかのように、批評を行ってきた。そして、心の中に、批判の意識がどんどん積もってくるのである。


漠然と生きると、様々な問題に対して違和感を感じ、それらにいちいち反論するような思考が頭の中で発生する。しかし、どう生きれば良いかを自分で決めることに抵抗感もある。


これまで生きてきて、人間としての生き方は、イメージがつくものの、社会の中での自分や人間の生き方は今だに漠然としている。


漠然としている裏には迷いとわからないという感覚が含まれている。決めることへの恐れが迷いを生む。

自分が批判的になっていると感じたら、それは自分が迷っているからであると、意識していきたい。