正解を求めるなかれ
正解を求めるなかれ
そもそも正解なんてありゃあしない。正解って何よ。
正解ってのは、問いが出てから正解が決まるんだ。
なのに、問いすらもわからない状態で、これが正しいとか、間違っているとか、正解があるような表現が今の社会には多くはないですか。
特に英語なんかやってるとそう感じるでしょう。英語こそ答えなんてない。みんなが求めているのは、今の自分の日本語で考えていることを英語に対応させようってこと。そこの時点で間違っている可能性が高い。日本語に対応する英語の表現はあっているけど、そういう表現は実際使わないとかね。
常に正解とか合ってるとか間違ってるとか正しいとか正しくないとか、そういう気持ちがしてきちゃうわけですね。
ただ、正解を決めていくとしたら、それはシンプルなものだろう。シンプルで明快なこと。それがわかりやすいってことだ。
問いがあって、答えがあるというのは、ちょうどロジカルシンキングのようなもの。ロジカルシンキングは論理で問いと命題を結びつけるメソッドだから、シンプルに知識を結びつけたものは、正解に近くなりやすい。
となると、シンプルな表現が望ましいってなるんだけど、ここに自我が入ってくるとさ、単純すぎるっていう印象も生まれる可能性があるんだよね。なんとなく複雑な方が高等に感じてしまうわけだ。それで、答えからどんどん離れていく。
シンプルなものから遠ざかれば遠ざかるほど、答えから遠のいていく
できない人ほどごちゃごちゃと余計なことをする。かつては自分もそうだった。ごちゃごちゃ余計なことをやって、そして迷うわけだ。シンプルにリラックスして考えりゃあいい。