ねこ哲の思考メモ

気づきや日常をメモしていく。後に思考を整理するために。

続・音大卒業生の就職状況に関する考察ー頂いたコメントに学ぶー

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昨日、音大卒業生のニュースに関してブログを書いたところ、沢山のコメントを頂戴したので、感謝の気持ちで溢れながら、コメントからまた理解を深めていきたいと思う。

 

suware.hateblo.jp

 

こちらの話の元ネタはこちら・・・

news.livedoor.com

 

前回の記事に関しまして頂いたコメントを幾つか転載いたしますと、

 

音大卒業生の悲惨な就職状況に関する考察 - ねこ哲の思考メモ

「就職できないから」入学者を絞るってだけなら納得度低いけど、18歳人口がかつての半分になってることを踏まえての話なら、それなりに分かる。

2018/10/22 16:58
音大卒業生の悲惨な就職状況に関する考察 - ねこ哲の思考メモ

音楽大学の卒業要件で研究をしている人ってどれくらいいるんだろう。大学は就職をする場所ではないって話はわかるんだけど、音楽大学って音楽学校と何が違うんだろう。どういう風に音楽の世界を前に進めるんだろう

2018/10/22 11:10
音大卒業生の悲惨な就職状況に関する考察 - ねこ哲の思考メモ

数学者よりも数学の先生が多く、作家よりも国語の先生が多い。スポーツ選手よりも体育の先生のほうが多い。音楽家より音楽の先生のほうが圧倒的に多い。音楽で食っていく人たちが学校を作る理由としてはよくわかる。

2018/10/22 09:41
音大卒業生の悲惨な就職状況に関する考察 - ねこ哲の思考メモ

「就職できないなら入学者を絞るべき」って言う考えに違和感。就職を目的としない学問ってそんなに否定されるべきなの? 大学ってのはそんなに就職に責任を持たなきゃいけない機関なの?

2018/10/22 09:29
音大卒業生の悲惨な就職状況に関する考察 - ねこ哲の思考メモ

楽器の値段や全体的な教育費をさげられれば、少なくともそれ以外の専門職ルートと同じになる。就職に不利な学科なんて(たとえば哲学とか)いくらでもあるのでそれ以上の解決策はないだろう。

2018/10/22 08:23
音大卒業生の悲惨な就職状況に関する考察 - ねこ哲の思考メモ

興味深い。うちの子は音楽好きだからなぁ。天才ならともかく。才能があるから成功するわけではなく、音楽もビジネスってことなんかなぁ

2018/10/22 05:18
音大卒業生の悲惨な就職状況に関する考察 - ねこ哲の思考メモ

出身者の人に聞いた話ですが、音大や芸大への入学時点で、彼らは進路と学業の不一致を覚悟しているし、教師もそのことを伝えるそうです。私も情報系学部出身でプログラム関係の事をしていますが授業は関係ないですね

2018/10/21 10:27

 

 皆様から頂きました指摘はご尤な指摘が多く、半分近くが「音大はそもそも入学者絞ったら良いんじゃないか」という僕の意見に対する指摘であった。

 

 

僕が、音大は入学者絞ったら良いのではないか、と意見を述べた理由には、就職先の需給を考えた点以外に、単純に能力的に「もったいない」という気持ちとクラッシック音楽系業界の暗雲感がある。

 

後出しじゃんけん的で申し訳ない。

 

これは僕のイメージだが、音大入学レベルで演奏できる人は、日々弛まぬ努力を惜しむことなく続けるができ、かつ家庭環境も比較的良好で、勉強もやればできる人が多く、総合大学へいけばそれこそ上位の大学へ行ける可能性が高い人が多いだろうとイメージしている。

 

がしかし、音大へ行くと、そこから先、仮に就職先が音楽系では無くなった場合、そこから先、なかなか周囲から評価を受けにくいことが伺える。

 

 なぜなら、音楽系ではない道では、音大卒の人は少なく、音大生のスゴさがなかなかわかりにくいからだ。

 

文学部や文学部哲学科などに代表される就職と直結しない大学の学問は当然あるものの、これらは総合大学に設置されていることが多い。早稲田大学文学部や東京大学文学部哲学科など、入学時の大学名で、およそのレベルを図ることができる。

 

そのため、日大のような総合大学のうちの音楽科東京音楽大学のような単科の大学は事情が変わってくるだろう。

 

就職と大学で学ぶことが直接つながる必要はないと思うが、せっかくなら入学する時にした努力・在学中の努力分が社会に出た時に活きればなお良しと捉えている。

 

 

少し話を変えて、クラシック系音楽業界の暗雲感に話を移す。

 

クラシック系音楽は崇高であり、文化的であると感じる一方、近年のテクノロジー発展となかなか相性が悪いのではないか。と感じている。

 

20−30年以上の昔は、音楽を聴くことそのものが一苦労で、楽器を演奏できる人が重宝され、プロピアニストやオーケストラのコンサートが盛んであった。

 

CDができて、多数のオーケストラ系のCDが発売され、同じクラシックの曲を何人もの演奏家が弾いてきた。

 

クラシック系音楽の利点としては、著作権気をつけることなく、著名な曲を自由に弾ける点にあるが、それが故に、みんなが同じ曲を弾くから、その曲を弾くことに対する新鮮さが失われている。

 

当然、最近の音楽を弾こうとすると著作権をはじめとした権利問題に突き当たる。

 

時代が進化し、コンテンツが蓄積され、聞きたい音楽は、いつでも聞けるようになってきたが、過去の蓄積があるため、音楽を録音する需要は少なくなっているだろう。

 

一方、ピアノの先生のような「演奏を教える」という行為も、動画やオンラインサービスの流行により、多数の先生の必要性が薄れている。予備校と同様に、多数の先生より、1人のカリスマの先生が授業をする形式が主流となるだろう。

 

もはやクラシック系音楽に残された価値は、「多人数が一律に調律を持って奏でる瞬間の感動」を生で感じることぐらいしかないのだろうか。

 

音楽とテクノロジーで考えると、動画配信で「弾いてみた」のテーマで上手く人気を出すというユーチューバー的な道も最近みかけるが、この道はどの程度周囲は容認できるのだろうか?

 

子供の頃から音楽に触れ、ひたすらに楽器を練習して、極めてきた結果、20歳を超え、途中でプロになれるほどの才能はないと気づき、ユーチューバーとして一旗揚げようと、方向性を変える。

 

個人的にはアリだと思う。が、家庭の反応は気になるところである。

 

 

また、クラシック系を突き詰めて音大を卒業しても、実際プロになれる人間も一握りであることから、その道で人生進もうとするのは、いささかハイリターンであると感じる。

 

 

音大卒業後、結果的に、プロになれる人が一握りなのであれば、将棋や碁みたいにプロテストで絞り込んだらいいのに

 

将棋や碁みたいにプロをきっちり決めて、毎年○人プロになれます。年齢制限あります。のような制度があれば、もう少し話は変わるかもしれない。

将棋や碁で飯食っていこうとしたら、まずプロになる以外に道が無いから。

覚悟無き者は、ハードルの高さを早々に悟り、道を降りる。

道から降りることもまた勇気。

 

 

結局、音大は入学者を絞ったほうが良いのでは?

 

とは思うものの、音大で働く人々の生活や、志望者の多さから考えると、利権も絡むことから、入学者を絞ることは絶対にないと思う。入学者が絞られないと、就職先の受け皿が広がらなければ、そこから溢れる者が出続けるが、それは仕方のないことである。

 

はてなブックマークでコメントいただいた通り、ここで話してきたような内容、音大志望者の多くは就職とギャップがあることもわかっているし、覚悟を決めているようである。その志を応援したい。

 

 

まとめ

・テクノロジーの発達のせい(?)で、クラシックの曲を演奏できる価値が薄れてきているのではないか。

・音楽からユーチューバーになる道もあるだろうが、家庭的にはどの程度アリなのだろうか。

・やはり音大は入学者を絞った方が良いのでは?と思う反面、頑張る人は応援したい

 

 

いただいたコメントに感謝します。そこから考えて、理解が広がりました。

 

 

 

価値観の根を深め、アイデアの花を咲かそう 〜人生の理解を木に喩えて〜

価値観や哲学的な考えを木の根に喩えて考えてみると、妙にしっくりきた。

 

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大樹は、広く深く根を張り巡らせ、太い幹を支え、花を咲かせる。

 

ここで、

木の根     → 価値観や哲学的考え

木の幹     → 人生の生活基盤・肉体や精神。

枝や葉っぱ、花 → 社会的な生活や成功。発想、アイデア

のようなイメージで考えてみる。

 

植物の成長を考える上で、花と根のうち、より大切なのは木の根。

 

木の根が深く広く張り巡らされていかなければ、木の幹を支えられない。

 

花は枯れるもの。しかし、根は枯らしてはいけない。

 

木の根がしっかりしていれば、花が枯れようとも、時来れば花は咲く。

 

また、花は外から見えるが、根は見えない。

 

社会の刺激の中では、どうしても他人の表面的な成功やアイデアに注意が惹きつけられる。

 

花を咲かそうと思った時、たまたまラッキーで咲くこともある。が、本当に大成している場合、その裏側に深遠なる哲学がある。

 

 類まれなる創造性で、ファンを魅了し続けた、apple創業者のスティーブ・ジョブズがヨガを好み、ヨガの哲学を学んでいたのは有名である。スティーブ・ジョブズが「あるヨギの自叙伝」をこよなく愛したというのは有名だ。あるヨギの自叙伝は、かなり分厚く、スピリチュアルな要素も入るため読みこなすのが大変だが、まさにヨガ哲学の本質を学ぶのに素晴らしい一冊である。

 

ジョブズが生涯、愛した一冊『あるヨギの自叙伝』 | 本to美女

  

 

 

要は、深く広い物事の理解は、大成につながるということ。

 

 ここで、価値観や人生の理解という根を掘り進め広げていくにはどうすれば良いか?考えてみたい。

 

 根を掘り進めていく時は、色んな根が行き当たりばったりに、突き進んで掘り下げられていく。時に硬い岩盤に当たることもあれば、柔らかいところがグングン伸びることもある。

 

物事の理解も同じ。決まった方向に理解が進むというよりも、色んなことを考える中で、わかることはわかったり、ある時はわからなかったけど、いつかわかるようになっているということは多い。

 

実際的なアクションとしては、本を読んでみたり、物事や自分の考えを深く考えてみることで、理解は進んでいく。「経験」をすることも、理解を深める上で大きな助けとなる。考えてみて、経験して、「あっ」と気づいて、理解は進んでいく。

 

 

価値観の理解が進んでいくにつれ、ちょっとやそっとの世間の刺激じゃ揺るがない自分ができていく。上手くいかないことがあっても、人生がポキっと折れて復帰できないようなことはほぼ無く、時来たれば成功の道へ戻っていくことだろう。

 

明けない夜はない。冬の次には春が来る。

 

 

価値観の根を広く深く広げていき、アイデアの花を咲かせていこう。樹のように。

音大卒業生の悲惨な就職状況に関する考察

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news.livedoor.com

 

この記事を読んだ。

音大が日本全国で42校もあり、そこからの国内オーケストラの就職先が36団体しかないと初めて知り、驚愕している。

 

42校の卒業生、音楽系の職への就職率は如何なものかと調べたところ、以下のサイトに行き着いた。

tmaita77.blogspot.com

 

以下、同サイトからの引用である。

 この推定音楽家就職者136人は,ほぼ全てが音楽関係学科の卒業生とみてよいでしょう。同年春の大学の音楽関係学科卒業生は4,485人です。したがって,音大卒業生のうち,晴れて音楽家になれたのは,136/4,485 ≒ 3.0%と算出されます。

 

音大を卒業し、音楽家になれる人は推計すると全体としては3%で、そこからさらに楽器により強弱があると・・・。

 

そして、オーケストラ業界が伸びていくことは考えにくい。

 

音大へ入学する時には、期待に胸を膨らませて入った多くの若者が、卒業時には、ほとんど音楽へ関連する仕事へありつけないという状況は、辛いものがあるだろう。

 

まあ、音大卒業生全員が全員オーケストラを目指しているわけでもないだろうし、声楽系もある。直接は関係ある仕事に就けなくても、音楽と関わりの一般企業へ就職できる人もいるにはいる。しかし、やはり現状の音大入学者数と卒業者の就職先の数のバランスは明らかに釣り合っていないと感じる。

 

また、音大へ入り卒業するには、相当の努力と金を費やさないと入れなく、入学から卒業までのレッスン費用も含めると数千万単位の費用が必要であり、それもまた、途中で道を諦めるということも、難しくしているのだろう。

 

latte.la

 

楽家の道に近い道として、画家(芸術系)、漫画家やプロスポーツ選手などの専門職系が思い当たるが、学習にかかる費用の点と、就職先のリターンの点で、他よりバランスが取れていないように感じる。

 

凄まじくザックリであるが、各専門職系の費用や就職先に対するイメージを表に起こしてみた。

 

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音大系は、楽器が必要な分、それ以外の専門職ルートへ比べると、平均して教育費用がかかる。楽器に拘り出すと数百万単位のお金が飛んでいく。

 

と、こう考えてみた場合、音大系のルートは、なかなか道として険しい印象がある。

 

 

就職先という出口がないのであれば、その前の入り口で絞るしかない。

 

例えば医学部のように、入学者数をできる限り絞って、就職先の数とバランスを取るのも対策の1つではある。

 

 

古い資料にはなるが、文科省の平成16年度の医学部医学科卒業生は、6,737名であり、医師の需給に合わせて入学者数が調整される。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/029/siryo/06061613/001.pdf

 

 

職にありつけない人を増やさないためには、入り口を絞れば良いと誰もがすぐ思いつくが、そうならないのは、「音楽家」という国家資格がないことと、音楽業界の性質に起因する。

 

楽家という資格がないから、職として、どれぐらい需要と供給があるのか、判断することが難しい。また、プロミュージシャンのような道は、必ずしも音大卒である必要がなく、「オーケストラ」の道であれば、音大卒業はほぼ必須となるが、「ミュージシャン」系であれば、音大卒業は必須ではない。

 

こちらの「音大」と「ミュージシャン」が混ざることにより、世間の人がどれだけ「音楽」に対する需要があるのか捉えることが難しくなり、どれだけ専門的な教育を受けた人が必要なのかわからなくなる。

 

「音楽」の枠で考えれば、ビジネス側面から考えると、CD系のデジタル系の販売数は年々低下しているものの、ミュージシャン・アーティストのライブに力を入れ、業界全体の動員数は増加傾向にある。

一方、オーケストラ系の動員数が増えたとは、ほとんど話を聞かない。むしろ、クラシック系のジャンルは人口が減り続けているらしい。

togetter.com

 

 

オーケストラ系演奏者の高齢化

 最初の記事にもあったが、オーケストラは、一度入ってしまえば安定的だ。スポーツと違ってケガがあるわけではないし、芸術系と違ってアイデアが枯渇することもない。

だから、一度入ってしまえば、長期的に働き続けられる職ではある。

 

しかし、それは逆に裏返すと、人材の流動性が著しく低く、徐々に業界や組織全体が高齢化していくのを避けられない状況にあると言える。

 

 

前向きに音大卒を強みとして就職へ活かす解釈

これまで、音大卒業生の就職状況を悲観的に考えてきたが、音大卒を武器として、一般企業の職へ活かしたら良いとポジティブに捉えるような書籍もあった。

 

 

 

こちらのレビューでは、

「音大進学に対する就職への不安が払拭されました。」

といったコメントもあり、一般的にはどうなんだろう?と疑問符がつくような事柄も、上手く前向きに捉えて、人生に活かしていける理解が得られることは大変素晴らしいと思う。

 

 

まとめ

  • 音大のルートは、美術やスポーツと比較すると、楽器が高価な分、教育費用が高い。
  • 音大生卒業生の就職は大変であるものの、企業の中では活かせる方向性もある。
  • 個人的には、音大の数(入学者数)は、多すぎるように感じる。もっと絞っても良いだろう。しかし、音楽業界は、クラシックとミュージシャンが混ざると、どれだけの需要があるか、測ることが難しい。文化とビジネスが混ざり、価値を測ることも難しい。

 

 

 

 

続き(2018年11月22日)

はてなブックマークコメントありがとうございました!

いただいたコメントも絡めて考察を続けてみました。

suware.hateblo.jp

 

 

空気が読めない人 ~ちょっとそこ座れ~

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空気が読めない人

 

ちょっとそこ座れ。

 

自分が空気が読めないという自覚がない人、空気が読めないことに困っていない人はこれより続きを読んでも時間の無駄だ。

すぐに下の出口から、他の有意義な記事を読みにいくといい。

 

 

【出口】

はてなブログ

 

 

 

さて、ここまで読み進めているのは、「空気が読めないで困っている人」のみとして話を続ける。

 

あらかじめ伝えておくが、ここから先を読んだところで、すぐに空気が読めるようになるわけじゃあない。コミュニケーションにおける長年の習慣もあるから、そんなすぐに解決できるようなもんじゃない。

 

が、もしかしたら、何か解決につながるヒントがあるかもしれない。

あまり期待もせず、気楽に読んでみるといい。

 

空気が読めない人は、他人とのコミュニケーションで躓くことが多いという自覚があるだろうが、それは何故かわかるかな?

 

空気が読めない人は、コミュニケーションにおいて会話の流れがわかっていないから、躓くことが多い。

 

会話の要素としては、以下の4つがある。

 

・会話のルール
・会話の流れ
・他人の思考
・自分の思考

 

会話のルールは、大前提として、他人の気分を害さないことをルールとする。

 

 

他人の気分を害しても構わないぜ!俺には俺のルールがあると信じる方は結構。そのまま自分の道を貫くと良い。

 

他人の気分を害さないコミュニケーションに重要なことは何か。それは、他人の思考を乱さないことである。他人の思考を乱さないようにするには、会話の流れを意識することが重要だ。

 

コミュニケーション上の所作や振る舞い(相槌をうつとか、相手の意見に同意する)に関しては、コミュニケーションのハウツー本に任せるとして、ここでは、どういうパターンで人は他人の思考を乱すのかに関して焦点を当てていく。

 

 

最近の消費税の増税周りのニュースに関しては、賛同しかねる部分がある。政府がキャッシュレス社会を推進したいのもわかるが、業界との調整が極めて困難な事案だ。

 

 

 

今、君の思考は乱された。コイツ何言ってるんだ?と。それまで偉そうに当たり前のようなことを語ってきた割に、なんなんだ?と。

 

 

 

ブログだろうと、会話だろうと、万物流れは存在する。

 

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人の思考も連続的だ。話題を理解しようとすればするほど、その話題の流れが頭の中にできている。

 

だいたいの場合は、それぞれの人の思考は、流れに沿うんだが、「思いつき」や「感情の乱れ」が起きて、ズレたことが頭に発生する。

 

自分が思いついたことや感じたことを、求められていないタイミングで、会話に投下すると、会話の流れが乱れ、他人の思考が乱れ、他人の気分を害する。

 

要は、思いつきや感じたことを、むやみに会話で言うなということ。会話の流れがわからないときは、黙っておけばまずは問題ない。

 

発言を求められたタイミングで発言するようにするだけでもかなり改善する。

 

こんな当たり前のこと、できていない人はできていない。

 

なぜできないかというと、「思いつき」というのが厄介で、多くは、自分で良いことを思いついたと感じて発言してしまうからだ。

 

自分で良いことを思いついたと感じて言ってしまうこと

言いたいという感情から、会話の流れを意識せず言ってしまうこと

 

ここのあたりを気をつけることで、だいぶ傍から見たときに、「こいつ空気読めないやつだ」とは思われなくなる。

 

言いたいことも言えないこんな世の中は 〜POISON〜

 

自分が言いたいことは、他人が聞きたいことではない時もある。

空気が読めないと思われているような人は、他人が聞きたくないような発言が多いから、空気が読めないと扱いを受けてしまっているんだろう。

 

言いたいこととか、思いついたこととか、あんまり言う必要無いんだよ。

 

そんなに人にすごいって思われたいの?

 

すごいこと思いついた俺すごいみたいなこと、心の底で考えて発言してんじゃないの?

 

そんなのやめちゃったら良いんだよ。

 

思考を捨てる・発言を捨てるということもとっても大事なこと。

 

本当に良いことやアイデアは、捨てた後、また湧いてくる。

 

話を野球に例えると、空気が読めない人は、ゲッツーが多いバッター

 

それまでチームで溜めたランナーを殺し、チャンスを消す。

それなら三振した方がまだましすらある。

 

野球のプロだって打率10割じゃないんだし、自分の発言だって、そんなに打率は良くないってこと自覚しなきゃ。

 

空気が読めない人がいると、その人が10回発言した時、5,6回は場が凍るだろうね。会話に関しては、凡打が1割でもあると致命傷だ。

 

凡打を減らすには、打数を減らす(口数を減らす)というのも、とっても大事。

よーく場を観察して、イケる!と思ったタイミングだけ、発言すれば事故率はぐっと下がる。

 

まずは、会話の流れを意識してみよう。

 

会話を観察して、他人の思考を乱さないように、心がけてみようか。

 

 

人間明日からいきなり変わることは難しい。だが、心がけはできる。

 

何回も忘れるかもしれない。うっかりやっちまったとなるかもしれない。

 

それでも良いじゃない。会話を上達させていくには、失敗させていくことも大事。

 

プロ野球選手の、美しい投打の影には数え切れない凡打がある。

 

本当に空気を読もうとすると、他人の思考を理解したり、自分の思考を洗練させていくことが次のステップで大切になるんだけど、そこのステップは別の記事で書いていく。

 

あなたが、少しでもコミュニケーションに対する理解が進み、他人とのコミュニケーションを恐れることが減り、楽しめる機会が増えることを願う。

 

わかったならいってよし。

心の声を無視して生きると起こること

                                   f:id:nekotetsustyle:20181018220751p:plain

 

心の声を無視して生きてみよう。

 

心の声を無視すれば、ただ静寂な心だけが残り、なんとも言えない不思議な感覚だけが残る。

 

心の声とは、頭の中で絶えず呟いている言葉や映像のことだ。

この言葉や映像が何なのか、冷静に考えたり、観察できることは少ない。

 

多くの人は、その呟きや映像を、自分が考えた思考だ、自分の考えだと思い込んでしまっている。

 

それは果たして本当だろうか? そもそも自分とは何だろうか? 

そのつぶやきの正体をじーっと観察していくと、その裏側にある自分の本性みたいなものをなんとなく感じることができる。

 

宇宙空間は99%以上「何もない」空間である。

それと同様に、自分の本体は実は「何もない」ところで感じとることができる。

 

また、心を空にして、物事に対応することができれば、驚くほど集中力が発揮され、驚くほど疲れない。 

 

心のつぶやきは、心を疲弊させる。

 

常に体を動かし続けると、すぐに疲れ切ってしまう。それと同様に、無駄に心を思考させ続けると、すぐに疲れてしまう。

 

実際のところ、心のつぶやきを消すことは難しい。

真剣に座って瞑想をしてみたって、どんどん雑念が湧いてくる。

 

気にするなと言われても、気にしてしまうことがあるように、なかなか思うように心の声を無視することは難しい。

 

消そうとするのであれば、何がつぶやきの素になっているのか理解することが大切だ。

 

だいたい心の声は感情か、直近の過去、未来の心配(特に不安)から構成される。

 

つまり不安定的な、不確定的な要素が素となり、それを心で繰り返してしまうことが多い。

自分が何を考えているのか、なぜ心でつぶやいているのか、理解を試みて、無視してみよう。

 

 

悩みは、悩むからどんどん膨らむ。悩まなければ、それは悩みではなくなる。

 

ヤンキーやガラが悪い人たちに関わるとろくなことにならないと離れることはできるのに、悩み続けてもろくなことにならないと離れられないのはなぜなのか。

 

悩みや不安は、考え続けたところでどうにもならない。どうにもならないなら考えないほうがいい。どうにかなるなら、考えなくったって上手くいく。

 

心の声が無視できないように、人間というのはできていて、だが、それを克服したときに、成長が実感できる。

 

暴れん坊の子供が大人になるにつれ、態度がおとなしくなるように、心も、暴れん坊の心から、落ち着いた心へ成長する。

 

心の声を無視して生きていこうと改めてそう思う。

5年ぶりの投稿。改めて人生を理解しようとするために。

 

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こんばんは。ねこ哲です。

あまりに久しぶりすぎる投稿過ぎて、自分のハンドルネームも忘れてしまっていた。

 

もともと、人生の理解を深めたいという想いから初めたこのブログではありましたが、日々の師事に忙殺され、気づけば、更新が止まり、諸々の変化の中でこのブログの存在を忘れ・・・、人生への探究心が薄れていた。

 

久しぶりに自分のブログを思い出し、そして、自分の価値観を考え直したとき、やはり、小さな気づきを積み重ねて、人生の理解をより深めていき、より人生を価値高く味わっていきたい気持ちが沸々と込み上げてきている。

 

この5年、自身の中で変わったものもあれば、変わっていないものもある。人生観に対する本質的な考え方は、おそらくほとんど変わっていない。しかし、当時読んでいた本の内容や、考えていたことなど、色んなことを忘れてしまった。

 

人間、成長することもあれば退化もする。

初心へ還って、人生探求を再出発していきたい。

 

この5年間を振り返って

 

この5年、漠然と生きてきた。

それはそれで楽しく生きてこれた。

 

時間は、仕事の割合が多かったけれど、まぁ、恵まれた中で楽しく生きてこれたと思う。

 

日常的には仕事のことを考えていたり、趣味に没頭することは多かったが、人生について考えようとする時間がほとんど失われていた。

 

改めて振り返ると、漠然に生きているとき(それなりに満足してしまっているとき)、

なかなか能動的に人生を考えてみようという気持ちも出てこず、そして、人生について深く考えているような本やサイト・動画になかなか出会えない。検索すれば出会えるのに、そうしなかったのは、なんとなく、今の自分には必要ないと避けてきてしまったんだと思う。

 

腹が減らないと食欲はわかない。

 

人生に躓いたり、なにか心を改めるようなことが無ければ、なかなか人の心や人生の理解を深めようと思うことは難しい。しかし、求めれば、道が見つかることがある。

 

今、満たされている人はそれでいい。腹が減ったら、ご飯を食べればいい。人生に行き詰まったら救いを求めたらいい。ブログも書きたくなったら書いたらいい。

 

これもまた、1つの理解。

 

まとめサイトをまとめるまとめ

まとめって言っても、自分がコメントを出していくだけ。だが、ディープな意見を求める。なるべく深く論じることができるものに対してのみ論じる。
ニュースを掘り下げて考えてみると、そして、複数の記事を参照してくると、見えるものがある。
そして、社会、世界がどのような方向性に向かっているのか、解釈する。

ヤンキー達はなぜ、同じようなファッションに行き着くのか

僕が最近感じている疑問は、

ヤンキーやDQNと呼ばれる人種は、なぜ皆同じようなファッション、言動になるのか

という疑問である。

彼らは、若干の個体差があるものの、かなり似通った行動をする。

スピードが好き
暴力をふるう
群れる
騒ぐ
髪の色を染める
B系のファッション
バイクに乗ると、やたらと音を出す


そう。まるで、ネコという動物は、世界のどこでもネコらしく振る舞うことと同様に、DQNと呼ばれる人種は、どこでも同じようなファッション、価値観を有しているのである。


これは、人間というものがある原始的欲求を有していて、それが極端に強調されたものがヤンキーやDQNという人種なのではないかとさえ感じる。


いわゆる理性というものが、ほとんど働いていない状態の人間。快楽を求め、仲間で群れ、周りに迷惑をかけ続ける。


これは本当に不思議だ。DQNやヤンキーは、ほとんど全国的に同じようなファッションであり、行動パターンとなる。

キリスト教のように、こうするべきであると布教して、dqnのスタイルが広まったいるわけではない。


彼らは、自分が特別でありたいというアイデンティティに突き動かされているのであろう。


だから、一般的なファッションを避ける。中高生のヤンキーは、まともな制服を避ける。で、その避けた先はみんなたいてい同じようなヤンキー系ファッションになる。


一度、まともなスタイルを辞めてしまうと、もう戻ることは難しい。彼らはまともなスタイルをダサいと言って、避ける。


この思考のパターンが、どのヤンキーでも共通していて面白いなーと思う。


彼らは特別な存在であろうとするが、ヤンキーというくくりでみれば、全国的に同じような価値観を有する個体となっていることに。


だから、彼らを理解することは比較的容易だと思う。常識というフィルターをかけて彼らを見てしまうと、全く彼らは常識を逸脱する不可解な存在であるように見えるかもしれない。


しかし、人間の本能的な側面から眺めて見ると、彼らは本能に対して従順に、その本能の思うがままに生きようとしているのがわかる。

僕の生徒のヤンキー化

僕は家庭教師で高校生の面倒を見ているが、その生徒が徐々にヤンキーになりつつあるようだ。

私立の高校に通い、バイトをしている。そして、友達の影響で、バイクをいじりはじめている。

服装もB系っぽい服装で、髪を染めている。

今高2で、本人は大学進学志望である。このままいけば受験では思うような効果は挙げられないだろう。このままでは、まず上手くいかないよと伝えて、本人もその場では頑張りますと言うが、すぐに元通り、勉強をしない状態になる。

僕の価値観では、高校時代に打ち込む対象はスポーツでも勉強でもどちらでも良いが、遊びのためのバイトとバイクは打ち込むべきではないと考えている。

バイトもバイクも金が絡んでくる。

家庭の事情で生活のためにバイトが必要であれば仕方ない。だが、遊ぶためにバイトをすると、常日頃金がらみのことに意識が持っていかれるようになり、集中力が低下し、学業もふるわず、かなりねじれた高校生活になる。

ここまでの話は、良くある高校で落ちこぼれていくストーリーである。

こう人が若くして落ちこぼれていく過程を、僕は観察している。

なぜ、落ちこぼれていくと言えるのか?

それも一つの青春の形だと言えるのではないかという声もあるかもしれない。

今時のヤンキーは、芯がない。

ただ、本能のままに、エゴの赴くままに群れて、人に迷惑をかけて、目の前の苦労から逃げて、楽を求める。

僕のイメージでは、昔のヤンキー(といっても昭和の、ろくでなしブルースのようなヤンキーだが)はもうちょっと芯があったと思う。

昔の方が悪いことしていただろうが、ヤンキーなりのポリシーがあって、規律を定めて、ヤンキー社会を形成していたと思う。

昔の社会も今よりも不安定な要素があったから(今も未来に対しては不安定だが、社会構造的には安定している)、ヤンキー上がりでも持ち前の根性で、社会でひょっとしたら成り上がるかもしれないという可能性を感じさせていた。

今は、全体的に弱体化していて、ヤンキーがただの反社会的な無能力者の群れと化しているではないかと感じている。

僕の教えている生徒は完全なヤンキーではないが、ちょいヤンキーな状態である。勉強を教えはじめてから5年間、徐々にヤンキー的な要素が増えてきている。

生徒は今の時点で他人には迷惑をかけないものの、親にはがっつりと反抗的態度を示し、学校がつまらないとぼやき、地元の仲間とつるみ、バイトに明け暮れ、バイクをいじる状態である。

この生徒を見る中から、今時のヤンキーは徐々に衰弱しているのではないかと感じる。

ヤンキーは群れる。

彼らは、時間があろうとなかろうと、とにかく群れる。

近年のスマホの普及により、LINEやらTwitterやらで四六時中お互いつながるようになり、より群れるようになってしまっている。

無料のゲームを貪り、動画やまとめサイト閲覧にふけり、仲間同士でつるむ。

バイトに没頭し、バイクをいじり、仲間同士でつるむ。

学校へ行き、授業へついていけず、追試になり、仲間同士で社会に対する愚痴をこぼす。

ヤンキーは、まず勉強や努力ができない。そして、お互い共鳴し合い、つまらん社会だと愚痴をこぼす。

生徒は言う「人生結局、誰でも死ぬんでしょ?じゃあ、勉強して出世したりしても、結局死ぬんだったら、辛い思いをして努力しても意味ないしつまらない。人生楽しく生きた方がいい。」


僕は言う「それはね、人生に対する理解が薄っぺらい人間の言葉だ。

例えば、将棋を良く知らない人間が、高度な将棋を見ても面白さを感じないだろう。

野球のルールをろくに知らない者が野球を見るのと、野球を知るものが野球を見るのと全然感じ方が異なる。

人生もしかり。

人生に対する理解が浅ければ、そこに面白みを見出すことができない。何事も素直な心を持たぬ初心者ほど上手くいかないときに愚痴をこぼす。

君の言う楽しみはただの感覚的な快楽のことだろう。これに浸ると、何事もすぐに飽きるようになる。より強い刺激、より新しい刺激ばかりを求めるようになり、目の前の素朴なものから楽しみを見出すことができない。


味付けの強い食事でなければ、味を感じないような状態になっているんだね。人生に対して。


そして、人生をRPGに喩えると、適切に自分をレベルアップさせていき、困難を乗り越えられるようにすることが、人生でもRPGでも大切なんだ。自分のレベルアップを怠ると、障害に対して負け続けるようになる。そして、障害に立ち向かうのではなく、逃げ続けるようになってしまうんだ。


目の前のことから逃げて、楽なところに身を置いてしまっては、レベルはちっとも上がらなくて、ただ時が過ぎていく。」


ヤンキー的な人達は、ネガティブな意見でお互いに共感しあう。普通のできない生徒との大きな違いは、ヤンキーは群れることだ


ヤンキーは群れ合う。それにより、そのヤンキー以外のコミュニティを否定する。


俺たちは最高の仲間だ。共に語り合っている。高校の他のやつらは個性がなくてダメだ。


ヤンキーは自分達を正当化し、他を否定し続ける。一人一人の心は弱い。だから、群れ合い、お互いに自分達の正しさを認め合おうとする。


こうなると、努力の入り込むスキは無い。心に火をつけたところですぐに消える。周囲に消されてしまう。


弱者の集団は、仲間が抜けがけするのを恐れる。だから、誰かが努力をしようとしても、そんなものは意味が無いと投げかけ、抜けがけするのをやめさせる。


こういう生活をしていれば、家庭内での関係はどんどん悪化していく。そうして、ヤンキーはより群れ合うようになる。


この負のスパイラルは、本人が強烈に抜け出したいと思わない限り、抜けられないだろう。恐らく、本人は負のスパイラルに陥っていることを自覚していない。


目の前の辛さを逃げて、快楽を追い求める。ただ、その繰り返しの日々である。


この負のスパイラルがはじまる最初の最初は、周囲に対する劣等感と不満だろう。それを共感しあう者が集い、そして、お互い落ちぶれていく。


スマホの中学生、高校生への普及により、ネガティブな意識の共鳴が今後より強まっていくだろう。


負のスパイラルに陥ってしまうと、外部からできることは限られる。

僕は生徒に勉強を教えるために家庭教師をしているが、ヤンキー化しつつある生徒は、もちろん勉強で成果を挙げられない。

勉強の教えることは教え、あとは良く観察してみよう。彼の生き方からエゴとは如何なるものか、学ぼう。

自己責任

今の日本社会は自己責任という言葉が流行っている気がする。

自己責任にも2パターンあって、1つは会社が製品や商品を説明する時に、このやり方は自己責任でお願いします。といった、うちでは責任とれませんよというパターン。

もう一つは、君が困っているのは、それまでの君の行いが悪いからだね。まぁ、自己責任てやつだ。というパターン。

こちらの後者のパターンが、ここ近年、僕が良く見聞きする印象である。

君が悪いんだよ的な自己責任は、結果に対して適用される場合が多い。こうなったのは君がいけなかったんだ的な。そして、それまでの行いを否定する。

例えば、病気で考えてみようか。
あー君。病気になったんだ。こんなに太っちゃってまぁ。そんな生活してたら、病気になるよ。自己責任だね。

相手の過去をごっそり否定するパワフルな言葉として、自己責任は乱用されている。
これと同じ言葉として、自業自得がある。ここ近年の傾向としては、自己責任の方が良く用いられる。

自己責任の責任はいったい何なのか?

責任には、未来に対して負う責任と過去の結果に対して負う責任と2種類に分類することができる。過去の責任とは、悪い結果に対して、その原因となった人物に罪を被せることに近い。

過去の責任は、誰が罪を被るのかに話の焦点がいく。自己責任に関しては、誰が悪いかは明らかなものとして扱われる。そして、自己責任と言われた人の過去の行動が否定される。

この自己責任という言葉で用いられる責任は、どうやら他の責任とはニュアンスが異なるようだ。

人は何かと責任を探すことが好きらしい。

自分が悪い立場に置かれると、人は悪い原因を探し出そうとする。俺が今、こう感じているのは、周りの人間のせいだ。

悪い奴を見つけて、責任という正義を振りかざし、糾弾を行う。

他者に対して責任という言葉が用いられる時は、まず、攻撃的な意識が含まれている。

自己責任も例外ではない。自己責任という言葉が出るとき、誰が原因でそうなっているか、その対象者は明らかである。そして、その対象者を無意識的に攻撃するために自己責任という言葉が投げかけられる。

困っている人が困っている結果に陥る要因は、その人自身の問題が大きいだろう。困っている人は、なぜ自分が困るようになっているか、わからない場合もある。


そうなっている者に対して、自己責任という言葉を浴びせて、本人が悪いと断定してしまっては、彼らは自らの過ちを省みる機会を失う。


自己責任という言葉は響きが良いだけで、中身がない。


自己責任という言葉を浴びせても、言われた側はただ混乱するだけである。

中には、自分が悪い状況に陥ったのを、あくまで自分が原因であると考えず、周囲が悪いと主張し続ける者もいるだろう。そういう人間は、残念ながら捻れた価値観を形成してきてしまった。強力すぎるエゴを育ててきてしまった。

このような人間には自己責任という言葉をぶつけてとあまり意味がない。すぐに言い訳したり、何か周囲のせいにすることが体に染み付いてしまっている。自己責任という言葉で攻撃すると、余計に反発するだけだ。


実際には、あらゆる人の行動は自己責任である。自らの人生は自らの意志でもって拓いていく。


しかし、人が過ちを犯した時、困窮している時、周囲ができることはなんだろうか。本人が見えていない因果関係を気づかせてあげることではないだろうか。周囲から自己責任という漠然とした言葉を投げかけてしまうと、本人はますます、自分の中の過失を見失う。


何があっても、何が起ころうとも、自分の行いから起こったのだと、全て受け止められる人であれば、自己責任という言葉には無縁となるだろう。


この逆に、自己責任という言葉は他人や環境のせいにしようとする人に対して投げかけられる。


自己責任という言葉を良く聞くようになったのは、使う側の意識も一因であろうが、自分の不幸を他人や環境のせいにしたがる人が増えたからなのかもしれない。

上から目線

ネットだったり、周囲を見渡すと上から目線の人間が多いと感じるだろう。

さてはて。この上から目線とはいったい何だろうか?

本人は勝ち誇っているように、自分の方がさも正しいかのような意識で発言するのが、上から目線であろう。

このとき、相手を馬鹿にしたような意識も混じっている場合が多い。

ここで少し面白いのが、そもそも上から目線という言葉で示す、ってどこなのだろうか?

上っていう意識は、上下関係があるなかでの上。対等な立場だと認識している場において、あたかも自分の方が偉いと意識して発言するのが、上から目線。

実際に自分より立場が上の人が発言する場合には上から目線とは言わないと。ここでいう立場というのは、コミュニティがあって、そこの中での階級のことだ。

コミュニティの中では、階級が高い方が偉いという意識がある。

上から目線の人は、自分の中でコミュニティの範囲が拡大されていて、自分の仲間内や日本社会といった、階級が制定されていないところにも、自分の階級を導入しているのだろう。

こいつは俺より上だ。こいつは俺より下だ。

無意識的にそう考えている。

根っこで考えれば、階級が高い方が偉いという意識が、様々な方向に伸びているのだろう。


さらに言えば、人は他人より優越したがっている。優越感を感じたがっている。


人は、自分に優越感を感じさせるためには、自己を肯定する方法と他人を否定して自分を優越させる方法をとる。


これより、上から目線の時は、自分を正しいと思い込みながら、相手を批判的に扱うのだろう。


もっとも、今の社会の流れでは、相手を批判していって、自分の正しさをアピールする例が多いようだ。


上も下もなく、偉いとか偉くないとか、すごいとかすごくないとか、そういった意識を捨てることにより、人と対等な関係を築いていくことができる。

偉いって何だ?すごいって何だ?偉いと正しいのか?正しいって何だ?

アイデアと土中の野菜

アイデアと土中の野菜にはある共通点があると感じる。

それは、泥がついているから、食べる前、アイデアを発案する前に泥を落とす必要があることだ。

大根、じゃがいも、人参。これらは土の中で育ち、収穫後は泥だらけである。食べるためには、まず、泥を落とさなければならない。そして、皮を剥く必要がある。さらに、調理をすることにより、美味しく食べられるようになるのだ。

アイデアの発見するプロセスもこれに近いものがあると感じる。まず、人は何かアイデアを思いついたら嬉しく感じたり、自分すごいと感じる、自分が正しいとも感じる。これは、野菜でいう泥のようなもの。自分のエゴや感情である。この泥がアイデアにこびりついた状態で人に提案すると、大抵の人は違和感を感じる。ほぼ確実に温度差がある。

自分は自分で思いついたアイデアすごいと感じているのに、他人はそうは感じないようだ。とふと感じ、その後幾つかの思考パターンに分かれる。

  • こいつは見る目が無い人だ
  • 自分のアイデアそんなにすごくないのかなぁ
  • 誰もこのアイデアの良さをわかってくれない
これはアイデアじゃなくても、自分の体験談を話す場合もそう感じることがあるだろう。

このようになる原因として2つ
  • アイデアそのものがつまらない。素材そのものが不味い。
  • アイデアを適切に相手に伝わるようにしていない。泥がついたまま伝えようとしている。

人はアイデアを思いついた時、気持ちが高揚する。良い体験をした時もそうだ。それで、そのままの勢いで人に伝えてしまい、受け入れられないことがある。

アイデアも、他人がその価値をわかるように、しっかりと泥を落として、調理をすることだ。

しっかりと泥を落として、皮を剥くと、中身が腐っていることに気づくこともある。

自分が見出したアイデアを、しっかりと客観的に観察してみることだ。これで、アイデアにつく泥がとれてくる。

泥が無くなると、良いアイデアとか悪いアイデアとか正しいとか正しくないと感じることが無くなってくる。

こうした状態で人に伝えれば、仮に相手に受け入れられなくても、冷静になぜ受け入れられないかを分析することができる。

繰り返しになるが、

土から野菜を引き抜くと、泥がついてくる。自分がアイデアを発想したとき、エゴや感情の泥がついてくる。上手く調理することで、人に受け入れられるようになるだろう。


思考をPCに喩えて スペースとソフトウェアとエゴ

人のパソコンを思考に喩えてみる。

特に、人のエゴとパソコンのソフトウェアの関係に注目する。

人の思考をパソコンで考えた場合、パソコンでいうメモリが人の思考のスペースにあたると考えられる。

CPUやハードディスクなど、その他の部品も含めて考えてみると、各自のスペックは次のようになると考えられる。

  • CPU   基本的な頭の処理速度。あまり人それぞれ違いはない。
  • メモリ  頭の思考スペース    人により大きく異なる 
  • ハードディスク   記憶容量    あまり人による違いはない
  • ソフトウェア    どのような思考パターンをするか  人により大きく異なる
  • ウィルス  思考パターンの中でも特に負の感情や強力なエゴを指す  人により大きく異なる
僕が感じるのは、人それぞれ、基本的なスペックは大差ないが、その思考の使い方により人の能力差を産むと捉えている。

ここでは、メモリとソフトウェアに焦点を当てよう。

パソコンで、ソフトをばんばん複数起動させてメモリをいっぱいにすると、パフォーマンスが著しく落ちることは多くの人が経験している。

また、ソフトやアプリをどんどんインストールして、常駐ソフトが知らない間に増えてきて、メモリが常にかなり消費されていることに気づいたという経験もあるだろう。

あとは、いきなりパソコンがめちゃくちゃ重くなったと感じたら、ウィルスに侵されていたとか。

だいたい人間の思考もこれと同じで、
思考している=メモリを消費していること
に近い

常日頃物事を考えてしまう人は半端なくメモリを消費している。

ここでは、考えてしまうという行為に対して、自分で考えようとして考えるのではなく、自分が考えさせられているという表現が正しいだろう。

それゆえに、いざ自分が思考をしようと思っても、その思考に使えるスペースは限られる。

実際、自分が日常的にあれこれ考えさせられるのことによって、パフォーマンスは落ちているのだが、日常的に思考することに慣れ過ぎてしまっていて、そのパフォーマンスが落ちていることに気づかない。

これは、逆に考えるとわかりやすい。できない人、能力が人はごちゃごちゃと思考を続ける人が多い。

これは、以前のエントリーである
と同じことである。

ちなみに、話は脱線するが、僕は何回も同じことを繰り返す。このブログを見ていただいている方は、お気づきだろう。今回の話も、結局、心を空にしていくことが大切だ。というオチになる。

本当に自分の思考を意識して観察することは難しい。自分が考えているのか、それとも考えさせられているのか、どちらなのかたいていわからないと感じる。

頭の中の呟きが、今の自分自身ではなく、自分の過去と経験からやってきた妄想であることに気づくことができた時、人は自分の本当の意識を悟ることができる。

あっ、これ俺じゃねぇ。って気づく。過去について、未来の不安について、他人についてごちゃごちゃ考えたがっている意識が自分の中にある。


このごちゃごちゃ考えたがっている意識は、宗教や自己啓発で様々な呼ばれ方をしている。自我とかエゴとか欲とか感情とか妄想念(マーヤ)とかインナーチャイルドとか。

で、このごちゃごちゃ考えようとしているエゴを上手くコントロールしようってのが意志

意志が弱いと、エゴが考えるままに考えさせられてしまって、たいていは自分に甘くなって堕落したり、努力が継続しない。それに加えて、集中力も出てこないだろう。エゴが強力である場合も同じような状況になる。


話を元へ戻す。


人は自分の中にあるエゴを意識し続けられない限り、自分が思考しようと思わなくとも、勝手に思考し続ける。

しかし、自分で自分が勝手に思考していることに気づいて、その思考をとめることができれば、自分の思考のスペースはフルに活用できるだろう。

その時はもはや、何も考えるという意識もなく、目の前の物事に対して意識を向けられ、考えを閃くことができる。

買ったばかりのPCは、サクサク動くが、しばらく使い続けると重くなるのと同様に、人の思考も生まれたてはサクサク処理できるが、ある一定時期から理解力と記憶力が落ち始めてくる。

だいたい3歳前後までは、ほとんど自我というものが存在しない。そのため、言語を無意識的にすごいスピードで理解できるし、音楽やスポーツも驚異的なスピードで身につけることができる。

この時期まではほとんどの人は記憶がないことがわかる。だいたい4歳ごろから、自分の認識できる記憶が発生する。自我、エゴは記憶や経験からやってくるため、4歳5歳あたりからエゴが徐々に顔を出して、強くなっていく。


そして、このエゴが出ることにより、人の頭は、思考によって埋め尽くされていく。

パソコンで言えば、気づけばどんどん常駐ソフトが起動するようになってきて、マシンメモリが圧迫されている状態となる。

思考の中でも、負の感情が絡む思考はウィルス並のネガティブなパワーを発揮する。

感情が強烈に働いている場合、エゴが全面に出ている場合、多くの人は思考をやめたくてもやめられない。ひたすらにぐるぐると同じことを思考し続ける。


ネガティブな思考はパソコンでいうウイルスのごとく思考を蝕む。こうなっている場合は、自分の能力を全く発揮できないだけではなく、他人に危害を及ぼす可能性すらある。


終わりに


今回の話は、読んでいて気持ち悪いと感じる人もいるかと思う。

それは誰がそう感じたのか。

なぜそう感じたのか。

そう感じる人は、自分は自分以外の何者でもないと強く信念する。

自分の中にはうすうすエゴの存在を感じるが、それをひっくるめて自分自身なのだと信ずる。

もともと、この自分の中のエゴの存在に気づくことは難しい。

絶えず鳴り止まぬ思考を止めてみることで、はじめて、それまでの思考がエゴからくるものであったと認識する。

都会の中では夜空を見ても星があまり見えない。周りに光がありすぎるから。都会の人は今見ている夜空が空だと認識する。しかし、いったん都会から離れ、全く人工の光の無く、空気の澄んだ山の上で星一面の夜空を見ると、空の本当の姿を知ることになるだろう。

エゴに埋もれた思考は、その思考そのものが自分自身だと感じる。心を澄まして、自分の思考が自分自身でないことを感じ取ることができれば、その人は人の本当の姿を知る。

エゴの思考に気づく簡単な方法は、意識的に深呼吸を続けることである。

深呼吸を続けると決めたつもりが、気づけば別のことを考えている。

下手をすると、その別のことを考えはじめて連想が続き、自分で呼吸を続けようと思ったことさえ忘れてしまっている。

ここで、何で自分は呼吸を続けようと考えたのに、思考し始めて、呼吸することを忘れてしまうのか?と考える。


これを繰り返すと、あぁ、自分てこんな思考パターンしているんだなと、自分の思考パターンに気づくようになる。それと同時に、他人の思考のパターンにも、同様の傾向があることを発見するだろう。

これを進めていくと、あぁ。もともとみんな同じ頭の構造しているんだなぁとわかってくる。ベースは同じで、どんなソフトウェアが入っているか。メモリをどんな感じに使っているか。


自分を理解することが、他人を理解すること、人間そのものを理解することにつながる。

心を空にして、深呼吸。

好きなもの、やりたいことを見つからない人へ

現代に生きる人で、自分の本当に好きなものはなんだろうか?本当にやりたいことはなんだろうか?と自分に問いかける人は、昔に比べて多くなっているだろう。
 

科学技術が発達してきて、誰でもあらゆる情報が手に入るようになり、多様な人生の選択肢があるように感じる現代は、表面的な自己満足は得やすいものの、自分の心の底から満たされるような人生を歩むことは難しくなっている。なぜなら、あまりにも多い情報―これらは社会から発信される情報だけでなく、身近な友人達から受け取る情報も含まれる―は、人を迷わせる元となるからである。情報が多くなれば選択肢は多くなる、選択肢が多くなれば人は迷う。心理学的にもありすぎる選択肢は、かえって選びにくくなることが知られている。

 

心理的トラップ:選択肢がたくさんあるとむしろ選べなくなる~マネーハック心理学15

 
僕は、この情報溢れる現代において、心より好きなもの、やりたいことを見つけるためには、頭のノイズを消していくことが、極めて有効な手段であると考えている。
 
頭の中にあるノイズを消していくことができれば自然と好きなもの、やりたいことは見つかっていくだろう。
 
しかし、頭の中がノイズで満たされてしまっていると、いかに様々なことにチャレンジしてみようとも、刺激的な体験をしようとも、好きなもの、やりたいことは見つからないだろう。
 
ここで、頭の中のノイズとはなんだ。という話をすると、人は頭の中でぶつぶつ呟く習性がある。大体の場合が、自分に対して都合の良いように考えるか、自分を擁護するか、現状への不満である。このぶつぶつ呟く存在は、宗教、哲学の世界では、エゴとか自我と呼ばれている。このエゴがひっきりなしに頭の中で、あれもやりたいこれもやりたい、あれはダメこれはダメとぶつぶつ呟いているのだ。
 
このエゴの強度や方向性は人により異なる。エゴの方向性は人の嗜好と性格につながり、エゴの強度はその人間の成熟度につながる。
 
頭の中のノイズはほぼ全てがこのエゴから来る。エゴが強力であれば、頭の中がノイズで満たされ、目の前の存在、体験を素直に受け入れることができない。そして、目の前の存在にある、一見隠れた魅力に気がつくことができなくなるのである。
 

人間は、今、目の前にある存在に対する感受性なくしては、本当にやりたいことや好きなものを見出すことができない。目の前に存在する様々な美に気づくことができなくなるのである。

 

目の前にある存在と感受性の例として、味覚を考えてみよう。頭の中であれこれ考えた状態で食事をするのと、頭の中で何も考えずに目の前の食事に集中して食べるのとどちらが良いか。

 

頭の中であれこれ考えながら食事をした場合、自分の食事に対して、食べてはいるけれども味覚をほとんど働かせることなく、ただ習慣的に食べていることになる。

 
ごちゃごちゃ考えている状態で、強烈な味付けに反応することがあっても、自分が食べている食材の味を味わい、噛みしめることはできるだろうか。
 
これらの違いは、一見、何気ない違いであるが、味覚の感じ方、すなわち感受性が大きく異なってくる。
 
そして、これは周りから指摘されることはほとんどない。周りから見て、考えながら食べているのか、何も考えずに、味を感じて食べているのか。周囲の人はどうやっているか知らないままに、いろんなことを考えながら食事をする。食事だけじゃない。目の前に異性がいる時でさえ、ごちゃごちゃと別の異性のことを考えてしまうこともあるだろう。
 
恋愛でもこれは一緒なんだ。目の前の異性に対して、その人だけを真剣に見つめていくか、その人と素晴らしい関係を築くことに意識を向けられるか。それとも、その人以外の人を考えたり、他のことを考えているか。
 
目の前のことに対して、目を背け始める時、その前後では、頭の中はノイズで満たされているだろう。目の前の存在の魅力に気がつかぬままに・・・。
 
好きなもの、やりたいことというものは、最初から完全に整っているとは限らない。

 

  • 自分が活躍できて、激務じゃなくて、待遇が良くて、楽しい仕事
  • 器量が良くて、優しくて、美人の女性
  • 仕事ができて、優しくて、頼れる家庭思いの男性
  • 安くて、美味しくて、栄養価の高い食事

こういう明らかにアタリみたいなものは、世の中そうそう転がってない。

だが、エゴから来る頭の中のノイズは理想的なものを求めようとする。

 

自分の好きなもの、やりたいことを見つけるのを諦めてみるのも1つの手だ。諦めることで自然体になる。頭の中からノイズが消えていく。そして、目の前のことを受け入れる心ができるだろう。

 

諦めると見せかけて、諦めきれていない未練が残ったような態度じゃあ駄目だ。

「人生そんなにうまいようにいかないよ。」と人に諭しておいて、自分はまだ上手くいくように思っている人もいるだろう。

 

長くなってしまったが、まとめると、好きなことを見つけるには、頭の中のノイズを無くしていくことが大切である。

 

どうすれば頭のノイズが無くなるか。いかに自分のエゴを無くしていくかが大切になる。頭の中で考え事をしている自分に気づくことである。

 

自分で自分の思考がどう飛ぶかを観察できるようになれば、頭のノイズは晴れていくだろう。この頭の中の雲が晴れることで、あらゆる出来事に対して、魅力や充実感を感じるようになる。

 

好きなもの、やりたいことを見つけるというよりも、やること関わることが、好きになるし面白くなる。そんな状態になっていく。

 

思考の観察に関してはこちらでも述べている。

 考えられない。考える。考えない。

真面目な人は不真面目な人に違和感を感じる

真面目な人は不真面目な人に違和感を感じる。

言い換えると、真面目さを大切にしている人は不真面目な人を見ると不愉快に感じる。
優しさを大切にする人は優しくない人に気持ち悪さを感じる。
頑張っている人は頑張っていない人に苛立ちを感じる。
ルールを守る人はルールを守らない人に強烈な反感を覚える。
 
逆に
 
不真面目な人は、真面目に生きてどうなるんだと言い
優しくない人は、優しさなんて上辺だけだと言い
頑張っていない人は、頑張ったところで報われないと言う
ルールを破る人は、ルールなんて破るもんさって言う
 

ここに、僕は物理の力学で言う「作用反作用の法則」のようなものが人間の思考にも働いているんじゃないかって感じるんだ。

 
「作用反作用の法則」とは、物体に力を作用させた時に、その反対向きにも力がかかる法則である。
 
人の思考に関しても、作用反作用の法則のごとく、反対の概念に対して反感を感じるようにできているんじゃないかと思う。
 
ここで、気をつけたいのが、頑張っているとか、協力しているとか、優しくしているとか、自分が前向きに捉えている価値観が自分を縛ってしまうことである。
 

人は前向きに生きようとすると、様々なルールを自分に課す。

 
努力しよう。真面目に生きよう。約束を守ろう。優しくしよう。
 
これらは、良い性格、良い意識として、尊重されるものであるが、これが自分を縛りつける可能性のあることになかなか気づくことは難しい。
 
しかも、この真面目とか優しいという定義も自分の中で、これが優しさだとか、真面目さだと決めている。
 
多くの人は、自分の行動や思考に対して気づかぬうちに正当化を行ってしまうため、自分は優しくないとか真面目じゃないとかあまり思わない。多少感じても、人間こんなもんだと自分に都合良く解釈する。
 
その中で、あぁ、真面目さとか優しさって大切なんだなぁって思った人が、周りから見ていても突出して真面目になったり、優しくなったりする。
 
明らかにこの人真面目だなーとか、優しいなーという人は、かなりの確率で不真面目な人や優しさが欠ける人を拒絶する。
 
ここで、自分でも意識することなく真面目になれている人や、意識することなく人に優しくなれている人は例外で、そのような人は自分と反対の性格を見ても何も感じない。
 
 
人の思考の傾向からすると、強烈に負の方向に自信を持つ例は少ない。不真面目に生きることに自信を持つことは難しい。優しくない人は人に冷たくすることに自信を持つことは難しい。人は周囲に嫌われたくないという意識もある。
 
しかし、強烈に正を意識するパターンは多い。俺は頑張っている。俺は真面目だ。俺は優しい。強烈に、頑張ることが大切だとか、優しいことが大切だとか、信念できる。人は、自分の大切にすることをしばしば人にも強要してしまう。
 

生き過ぎた正義感、正の性格は、自分も苦しくなるし、周りも苦しむこととなる。

 
太陽も強すぎると、暑い。ほどほどが良い。
 
一番良いと感じるのは、やはり、真面目に生きようとか、いちいち宣言したり強く思っていなくても、結果真面目な生き方をしていたり、優しくしようと意識していなくても、自然と優しく接することができる状態である。自然体ですね。
 
ただあるがまま。