読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ねこ哲の思考メモ

気づきや日常をメモしていく。後に思考を整理するために。

まとめサイトをまとめるまとめ

まとめって言っても、自分がコメントを出していくだけ。だが、ディープな意見を求める。なるべく深く論じることができるものに対してのみ論じる。
ニュースを掘り下げて考えてみると、そして、複数の記事を参照してくると、見えるものがある。
そして、社会、世界がどのような方向性に向かっているのか、解釈する。

ヤンキー達はなぜ、同じようなファッションに行き着くのか

社会
僕が最近感じている疑問は、

ヤンキーやDQNと呼ばれる人種は、なぜ皆同じようなファッション、言動になるのか

という疑問である。

彼らは、若干の個体差があるものの、かなり似通った行動をする。

スピードが好き
暴力をふるう
群れる
騒ぐ
髪の色を染める
B系のファッション
バイクに乗ると、やたらと音を出す


そう。まるで、ネコという動物は、世界のどこでもネコらしく振る舞うことと同様に、DQNと呼ばれる人種は、どこでも同じようなファッション、価値観を有しているのである。


これは、人間というものがある原始的欲求を有していて、それが極端に強調されたものがヤンキーやDQNという人種なのではないかとさえ感じる。


いわゆる理性というものが、ほとんど働いていない状態の人間。快楽を求め、仲間で群れ、周りに迷惑をかけ続ける。


これは本当に不思議だ。DQNやヤンキーは、ほとんど全国的に同じようなファッションであり、行動パターンとなる。

キリスト教のように、こうするべきであると布教して、dqnのスタイルが広まったいるわけではない。


彼らは、自分が特別でありたいというアイデンティティに突き動かされているのであろう。


だから、一般的なファッションを避ける。中高生のヤンキーは、まともな制服を避ける。で、その避けた先はみんなたいてい同じようなヤンキー系ファッションになる。


一度、まともなスタイルを辞めてしまうと、もう戻ることは難しい。彼らはまともなスタイルをダサいと言って、避ける。


この思考のパターンが、どのヤンキーでも共通していて面白いなーと思う。


彼らは特別な存在であろうとするが、ヤンキーというくくりでみれば、全国的に同じような価値観を有する個体となっていることに。


だから、彼らを理解することは比較的容易だと思う。常識というフィルターをかけて彼らを見てしまうと、全く彼らは常識を逸脱する不可解な存在であるように見えるかもしれない。


しかし、人間の本能的な側面から眺めて見ると、彼らは本能に対して従順に、その本能の思うがままに生きようとしているのがわかる。

僕の生徒のヤンキー化

生き方
僕は家庭教師で高校生の面倒を見ているが、その生徒が徐々にヤンキーになりつつあるようだ。

私立の高校に通い、バイトをしている。そして、友達の影響で、バイクをいじりはじめている。

服装もB系っぽい服装で、髪を染めている。

今高2で、本人は大学進学志望である。このままいけば受験では思うような効果は挙げられないだろう。このままでは、まず上手くいかないよと伝えて、本人もその場では頑張りますと言うが、すぐに元通り、勉強をしない状態になる。

僕の価値観では、高校時代に打ち込む対象はスポーツでも勉強でもどちらでも良いが、遊びのためのバイトとバイクは打ち込むべきではないと考えている。

バイトもバイクも金が絡んでくる。

家庭の事情で生活のためにバイトが必要であれば仕方ない。だが、遊ぶためにバイトをすると、常日頃金がらみのことに意識が持っていかれるようになり、集中力が低下し、学業もふるわず、かなりねじれた高校生活になる。

ここまでの話は、良くある高校で落ちこぼれていくストーリーである。

こう人が若くして落ちこぼれていく過程を、僕は観察している。

なぜ、落ちこぼれていくと言えるのか?

それも一つの青春の形だと言えるのではないかという声もあるかもしれない。

今時のヤンキーは、芯がない。

ただ、本能のままに、エゴの赴くままに群れて、人に迷惑をかけて、目の前の苦労から逃げて、楽を求める。

僕のイメージでは、昔のヤンキー(といっても昭和の、ろくでなしブルースのようなヤンキーだが)はもうちょっと芯があったと思う。

昔の方が悪いことしていただろうが、ヤンキーなりのポリシーがあって、規律を定めて、ヤンキー社会を形成していたと思う。

昔の社会も今よりも不安定な要素があったから(今も未来に対しては不安定だが、社会構造的には安定している)、ヤンキー上がりでも持ち前の根性で、社会でひょっとしたら成り上がるかもしれないという可能性を感じさせていた。

今は、全体的に弱体化していて、ヤンキーがただの反社会的な無能力者の群れと化しているではないかと感じている。

僕の教えている生徒は完全なヤンキーではないが、ちょいヤンキーな状態である。勉強を教えはじめてから5年間、徐々にヤンキー的な要素が増えてきている。

生徒は今の時点で他人には迷惑をかけないものの、親にはがっつりと反抗的態度を示し、学校がつまらないとぼやき、地元の仲間とつるみ、バイトに明け暮れ、バイクをいじる状態である。

この生徒を見る中から、今時のヤンキーは徐々に衰弱しているのではないかと感じる。

ヤンキーは群れる。

彼らは、時間があろうとなかろうと、とにかく群れる。

近年のスマホの普及により、LINEやらTwitterやらで四六時中お互いつながるようになり、より群れるようになってしまっている。

無料のゲームを貪り、動画やまとめサイト閲覧にふけり、仲間同士でつるむ。

バイトに没頭し、バイクをいじり、仲間同士でつるむ。

学校へ行き、授業へついていけず、追試になり、仲間同士で社会に対する愚痴をこぼす。

ヤンキーは、まず勉強や努力ができない。そして、お互い共鳴し合い、つまらん社会だと愚痴をこぼす。

生徒は言う「人生結局、誰でも死ぬんでしょ?じゃあ、勉強して出世したりしても、結局死ぬんだったら、辛い思いをして努力しても意味ないしつまらない。人生楽しく生きた方がいい。」


僕は言う「それはね、人生に対する理解が薄っぺらい人間の言葉だ。

例えば、将棋を良く知らない人間が、高度な将棋を見ても面白さを感じないだろう。

野球のルールをろくに知らない者が野球を見るのと、野球を知るものが野球を見るのと全然感じ方が異なる。

人生もしかり。

人生に対する理解が浅ければ、そこに面白みを見出すことができない。何事も素直な心を持たぬ初心者ほど上手くいかないときに愚痴をこぼす。

君の言う楽しみはただの感覚的な快楽のことだろう。これに浸ると、何事もすぐに飽きるようになる。より強い刺激、より新しい刺激ばかりを求めるようになり、目の前の素朴なものから楽しみを見出すことができない。


味付けの強い食事でなければ、味を感じないような状態になっているんだね。人生に対して。


そして、人生をRPGに喩えると、適切に自分をレベルアップさせていき、困難を乗り越えられるようにすることが、人生でもRPGでも大切なんだ。自分のレベルアップを怠ると、障害に対して負け続けるようになる。そして、障害に立ち向かうのではなく、逃げ続けるようになってしまうんだ。


目の前のことから逃げて、楽なところに身を置いてしまっては、レベルはちっとも上がらなくて、ただ時が過ぎていく。」


ヤンキー的な人達は、ネガティブな意見でお互いに共感しあう。普通のできない生徒との大きな違いは、ヤンキーは群れることだ


ヤンキーは群れ合う。それにより、そのヤンキー以外のコミュニティを否定する。


俺たちは最高の仲間だ。共に語り合っている。高校の他のやつらは個性がなくてダメだ。


ヤンキーは自分達を正当化し、他を否定し続ける。一人一人の心は弱い。だから、群れ合い、お互いに自分達の正しさを認め合おうとする。


こうなると、努力の入り込むスキは無い。心に火をつけたところですぐに消える。周囲に消されてしまう。


弱者の集団は、仲間が抜けがけするのを恐れる。だから、誰かが努力をしようとしても、そんなものは意味が無いと投げかけ、抜けがけするのをやめさせる。


こういう生活をしていれば、家庭内での関係はどんどん悪化していく。そうして、ヤンキーはより群れ合うようになる。


この負のスパイラルは、本人が強烈に抜け出したいと思わない限り、抜けられないだろう。恐らく、本人は負のスパイラルに陥っていることを自覚していない。


目の前の辛さを逃げて、快楽を追い求める。ただ、その繰り返しの日々である。


この負のスパイラルがはじまる最初の最初は、周囲に対する劣等感と不満だろう。それを共感しあう者が集い、そして、お互い落ちぶれていく。


スマホの中学生、高校生への普及により、ネガティブな意識の共鳴が今後より強まっていくだろう。


負のスパイラルに陥ってしまうと、外部からできることは限られる。

僕は生徒に勉強を教えるために家庭教師をしているが、ヤンキー化しつつある生徒は、もちろん勉強で成果を挙げられない。

勉強の教えることは教え、あとは良く観察してみよう。彼の生き方からエゴとは如何なるものか、学ぼう。

自己責任

生き方
今の日本社会は自己責任という言葉が流行っている気がする。

自己責任にも2パターンあって、1つは会社が製品や商品を説明する時に、このやり方は自己責任でお願いします。といった、うちでは責任とれませんよというパターン。

もう一つは、君が困っているのは、それまでの君の行いが悪いからだね。まぁ、自己責任てやつだ。というパターン。

こちらの後者のパターンが、ここ近年、僕が良く見聞きする印象である。

君が悪いんだよ的な自己責任は、結果に対して適用される場合が多い。こうなったのは君がいけなかったんだ的な。そして、それまでの行いを否定する。

例えば、病気で考えてみようか。
あー君。病気になったんだ。こんなに太っちゃってまぁ。そんな生活してたら、病気になるよ。自己責任だね。

相手の過去をごっそり否定するパワフルな言葉として、自己責任は乱用されている。
これと同じ言葉として、自業自得がある。ここ近年の傾向としては、自己責任の方が良く用いられる。

自己責任の責任はいったい何なのか?

責任には、未来に対して負う責任と過去の結果に対して負う責任と2種類に分類することができる。過去の責任とは、悪い結果に対して、その原因となった人物に罪を被せることに近い。

過去の責任は、誰が罪を被るのかに話の焦点がいく。自己責任に関しては、誰が悪いかは明らかなものとして扱われる。そして、自己責任と言われた人の過去の行動が否定される。

この自己責任という言葉で用いられる責任は、どうやら他の責任とはニュアンスが異なるようだ。

人は何かと責任を探すことが好きらしい。

自分が悪い立場に置かれると、人は悪い原因を探し出そうとする。俺が今、こう感じているのは、周りの人間のせいだ。

悪い奴を見つけて、責任という正義を振りかざし、糾弾を行う。

他者に対して責任という言葉が用いられる時は、まず、攻撃的な意識が含まれている。

自己責任も例外ではない。自己責任という言葉が出るとき、誰が原因でそうなっているか、その対象者は明らかである。そして、その対象者を無意識的に攻撃するために自己責任という言葉が投げかけられる。

困っている人が困っている結果に陥る要因は、その人自身の問題が大きいだろう。困っている人は、なぜ自分が困るようになっているか、わからない場合もある。


そうなっている者に対して、自己責任という言葉を浴びせて、本人が悪いと断定してしまっては、彼らは自らの過ちを省みる機会を失う。


自己責任という言葉は響きが良いだけで、中身がない。


自己責任という言葉を浴びせても、言われた側はただ混乱するだけである。

中には、自分が悪い状況に陥ったのを、あくまで自分が原因であると考えず、周囲が悪いと主張し続ける者もいるだろう。そういう人間は、残念ながら捻れた価値観を形成してきてしまった。強力すぎるエゴを育ててきてしまった。

このような人間には自己責任という言葉をぶつけてとあまり意味がない。すぐに言い訳したり、何か周囲のせいにすることが体に染み付いてしまっている。自己責任という言葉で攻撃すると、余計に反発するだけだ。


実際には、あらゆる人の行動は自己責任である。自らの人生は自らの意志でもって拓いていく。


しかし、人が過ちを犯した時、困窮している時、周囲ができることはなんだろうか。本人が見えていない因果関係を気づかせてあげることではないだろうか。周囲から自己責任という漠然とした言葉を投げかけてしまうと、本人はますます、自分の中の過失を見失う。


何があっても、何が起ころうとも、自分の行いから起こったのだと、全て受け止められる人であれば、自己責任という言葉には無縁となるだろう。


この逆に、自己責任という言葉は他人や環境のせいにしようとする人に対して投げかけられる。


自己責任という言葉を良く聞くようになったのは、使う側の意識も一因であろうが、自分の不幸を他人や環境のせいにしたがる人が増えたからなのかもしれない。

上から目線

生き方
ネットだったり、周囲を見渡すと上から目線の人間が多いと感じるだろう。

さてはて。この上から目線とはいったい何だろうか?

本人は勝ち誇っているように、自分の方がさも正しいかのような意識で発言するのが、上から目線であろう。

このとき、相手を馬鹿にしたような意識も混じっている場合が多い。

ここで少し面白いのが、そもそも上から目線という言葉で示す、ってどこなのだろうか?

上っていう意識は、上下関係があるなかでの上。対等な立場だと認識している場において、あたかも自分の方が偉いと意識して発言するのが、上から目線。

実際に自分より立場が上の人が発言する場合には上から目線とは言わないと。ここでいう立場というのは、コミュニティがあって、そこの中での階級のことだ。

コミュニティの中では、階級が高い方が偉いという意識がある。

上から目線の人は、自分の中でコミュニティの範囲が拡大されていて、自分の仲間内や日本社会といった、階級が制定されていないところにも、自分の階級を導入しているのだろう。

こいつは俺より上だ。こいつは俺より下だ。

無意識的にそう考えている。

根っこで考えれば、階級が高い方が偉いという意識が、様々な方向に伸びているのだろう。


さらに言えば、人は他人より優越したがっている。優越感を感じたがっている。


人は、自分に優越感を感じさせるためには、自己を肯定する方法と他人を否定して自分を優越させる方法をとる。


これより、上から目線の時は、自分を正しいと思い込みながら、相手を批判的に扱うのだろう。


もっとも、今の社会の流れでは、相手を批判していって、自分の正しさをアピールする例が多いようだ。


上も下もなく、偉いとか偉くないとか、すごいとかすごくないとか、そういった意識を捨てることにより、人と対等な関係を築いていくことができる。

偉いって何だ?すごいって何だ?偉いと正しいのか?正しいって何だ?

アイデアと土中の野菜

生き方
アイデアと土中の野菜にはある共通点があると感じる。

それは、泥がついているから、食べる前、アイデアを発案する前に泥を落とす必要があることだ。

大根、じゃがいも、人参。これらは土の中で育ち、収穫後は泥だらけである。食べるためには、まず、泥を落とさなければならない。そして、皮を剥く必要がある。さらに、調理をすることにより、美味しく食べられるようになるのだ。

アイデアの発見するプロセスもこれに近いものがあると感じる。まず、人は何かアイデアを思いついたら嬉しく感じたり、自分すごいと感じる、自分が正しいとも感じる。これは、野菜でいう泥のようなもの。自分のエゴや感情である。この泥がアイデアにこびりついた状態で人に提案すると、大抵の人は違和感を感じる。ほぼ確実に温度差がある。

自分は自分で思いついたアイデアすごいと感じているのに、他人はそうは感じないようだ。とふと感じ、その後幾つかの思考パターンに分かれる。

  • こいつは見る目が無い人だ
  • 自分のアイデアそんなにすごくないのかなぁ
  • 誰もこのアイデアの良さをわかってくれない
これはアイデアじゃなくても、自分の体験談を話す場合もそう感じることがあるだろう。

このようになる原因として2つ
  • アイデアそのものがつまらない。素材そのものが不味い。
  • アイデアを適切に相手に伝わるようにしていない。泥がついたまま伝えようとしている。

人はアイデアを思いついた時、気持ちが高揚する。良い体験をした時もそうだ。それで、そのままの勢いで人に伝えてしまい、受け入れられないことがある。

アイデアも、他人がその価値をわかるように、しっかりと泥を落として、調理をすることだ。

しっかりと泥を落として、皮を剥くと、中身が腐っていることに気づくこともある。

自分が見出したアイデアを、しっかりと客観的に観察してみることだ。これで、アイデアにつく泥がとれてくる。

泥が無くなると、良いアイデアとか悪いアイデアとか正しいとか正しくないと感じることが無くなってくる。

こうした状態で人に伝えれば、仮に相手に受け入れられなくても、冷静になぜ受け入れられないかを分析することができる。

繰り返しになるが、

土から野菜を引き抜くと、泥がついてくる。自分がアイデアを発想したとき、エゴや感情の泥がついてくる。上手く調理することで、人に受け入れられるようになるだろう。


思考をPCに喩えて スペースとソフトウェアとエゴ

生き方
人のパソコンを思考に喩えてみる。

特に、人のエゴとパソコンのソフトウェアの関係に注目する。

人の思考をパソコンで考えた場合、パソコンでいうメモリが人の思考のスペースにあたると考えられる。

CPUやハードディスクなど、その他の部品も含めて考えてみると、各自のスペックは次のようになると考えられる。

  • CPU   基本的な頭の処理速度。あまり人それぞれ違いはない。
  • メモリ  頭の思考スペース    人により大きく異なる 
  • ハードディスク   記憶容量    あまり人による違いはない
  • ソフトウェア    どのような思考パターンをするか  人により大きく異なる
  • ウィルス  思考パターンの中でも特に負の感情や強力なエゴを指す  人により大きく異なる
僕が感じるのは、人それぞれ、基本的なスペックは大差ないが、その思考の使い方により人の能力差を産むと捉えている。

ここでは、メモリとソフトウェアに焦点を当てよう。

パソコンで、ソフトをばんばん複数起動させてメモリをいっぱいにすると、パフォーマンスが著しく落ちることは多くの人が経験している。

また、ソフトやアプリをどんどんインストールして、常駐ソフトが知らない間に増えてきて、メモリが常にかなり消費されていることに気づいたという経験もあるだろう。

あとは、いきなりパソコンがめちゃくちゃ重くなったと感じたら、ウィルスに侵されていたとか。

だいたい人間の思考もこれと同じで、
思考している=メモリを消費していること
に近い

常日頃物事を考えてしまう人は半端なくメモリを消費している。

ここでは、考えてしまうという行為に対して、自分で考えようとして考えるのではなく、自分が考えさせられているという表現が正しいだろう。

それゆえに、いざ自分が思考をしようと思っても、その思考に使えるスペースは限られる。

実際、自分が日常的にあれこれ考えさせられるのことによって、パフォーマンスは落ちているのだが、日常的に思考することに慣れ過ぎてしまっていて、そのパフォーマンスが落ちていることに気づかない。

これは、逆に考えるとわかりやすい。できない人、能力が人はごちゃごちゃと思考を続ける人が多い。

これは、以前のエントリーである
と同じことである。

ちなみに、話は脱線するが、僕は何回も同じことを繰り返す。このブログを見ていただいている方は、お気づきだろう。今回の話も、結局、心を空にしていくことが大切だ。というオチになる。

本当に自分の思考を意識して観察することは難しい。自分が考えているのか、それとも考えさせられているのか、どちらなのかたいていわからないと感じる。

頭の中の呟きが、今の自分自身ではなく、自分の過去と経験からやってきた妄想であることに気づくことができた時、人は自分の本当の意識を悟ることができる。

あっ、これ俺じゃねぇ。って気づく。過去について、未来の不安について、他人についてごちゃごちゃ考えたがっている意識が自分の中にある。


このごちゃごちゃ考えたがっている意識は、宗教や自己啓発で様々な呼ばれ方をしている。自我とかエゴとか欲とか感情とか妄想念(マーヤ)とかインナーチャイルドとか。

で、このごちゃごちゃ考えようとしているエゴを上手くコントロールしようってのが意志

意志が弱いと、エゴが考えるままに考えさせられてしまって、たいていは自分に甘くなって堕落したり、努力が継続しない。それに加えて、集中力も出てこないだろう。エゴが強力である場合も同じような状況になる。


話を元へ戻す。


人は自分の中にあるエゴを意識し続けられない限り、自分が思考しようと思わなくとも、勝手に思考し続ける。

しかし、自分で自分が勝手に思考していることに気づいて、その思考をとめることができれば、自分の思考のスペースはフルに活用できるだろう。

その時はもはや、何も考えるという意識もなく、目の前の物事に対して意識を向けられ、考えを閃くことができる。

買ったばかりのPCは、サクサク動くが、しばらく使い続けると重くなるのと同様に、人の思考も生まれたてはサクサク処理できるが、ある一定時期から理解力と記憶力が落ち始めてくる。

だいたい3歳前後までは、ほとんど自我というものが存在しない。そのため、言語を無意識的にすごいスピードで理解できるし、音楽やスポーツも驚異的なスピードで身につけることができる。

この時期まではほとんどの人は記憶がないことがわかる。だいたい4歳ごろから、自分の認識できる記憶が発生する。自我、エゴは記憶や経験からやってくるため、4歳5歳あたりからエゴが徐々に顔を出して、強くなっていく。


そして、このエゴが出ることにより、人の頭は、思考によって埋め尽くされていく。

パソコンで言えば、気づけばどんどん常駐ソフトが起動するようになってきて、マシンメモリが圧迫されている状態となる。

思考の中でも、負の感情が絡む思考はウィルス並のネガティブなパワーを発揮する。

感情が強烈に働いている場合、エゴが全面に出ている場合、多くの人は思考をやめたくてもやめられない。ひたすらにぐるぐると同じことを思考し続ける。


ネガティブな思考はパソコンでいうウイルスのごとく思考を蝕む。こうなっている場合は、自分の能力を全く発揮できないだけではなく、他人に危害を及ぼす可能性すらある。


終わりに


今回の話は、読んでいて気持ち悪いと感じる人もいるかと思う。

それは誰がそう感じたのか。

なぜそう感じたのか。

そう感じる人は、自分は自分以外の何者でもないと強く信念する。

自分の中にはうすうすエゴの存在を感じるが、それをひっくるめて自分自身なのだと信ずる。

もともと、この自分の中のエゴの存在に気づくことは難しい。

絶えず鳴り止まぬ思考を止めてみることで、はじめて、それまでの思考がエゴからくるものであったと認識する。

都会の中では夜空を見ても星があまり見えない。周りに光がありすぎるから。都会の人は今見ている夜空が空だと認識する。しかし、いったん都会から離れ、全く人工の光の無く、空気の澄んだ山の上で星一面の夜空を見ると、空の本当の姿を知ることになるだろう。

エゴに埋もれた思考は、その思考そのものが自分自身だと感じる。心を澄まして、自分の思考が自分自身でないことを感じ取ることができれば、その人は人の本当の姿を知る。

エゴの思考に気づく簡単な方法は、意識的に深呼吸を続けることである。

深呼吸を続けると決めたつもりが、気づけば別のことを考えている。

下手をすると、その別のことを考えはじめて連想が続き、自分で呼吸を続けようと思ったことさえ忘れてしまっている。

ここで、何で自分は呼吸を続けようと考えたのに、思考し始めて、呼吸することを忘れてしまうのか?と考える。


これを繰り返すと、あぁ、自分てこんな思考パターンしているんだなと、自分の思考パターンに気づくようになる。それと同時に、他人の思考のパターンにも、同様の傾向があることを発見するだろう。

これを進めていくと、あぁ。もともとみんな同じ頭の構造しているんだなぁとわかってくる。ベースは同じで、どんなソフトウェアが入っているか。メモリをどんな感じに使っているか。


自分を理解することが、他人を理解すること、人間そのものを理解することにつながる。

心を空にして、深呼吸。

好きなもの、やりたいことを見つからない人へ

生き方
現代に生きる人で、自分の本当に好きなものはなんだろうか?本当にやりたいことはなんだろうか?と自分に問いかける人は、昔に比べて多くなっているだろう。
 

科学技術が発達してきて、誰でもあらゆる情報が手に入るようになり、多様な人生の選択肢があるように感じる現代は、表面的な自己満足は得やすいものの、自分の心の底から満たされるような人生を歩むことは難しくなっている。なぜなら、あまりにも多い情報―これらは社会から発信される情報だけでなく、身近な友人達から受け取る情報も含まれる―は、人を迷わせる元となるからである。情報が多くなれば選択肢は多くなる、選択肢が多くなれば人は迷う。心理学的にもありすぎる選択肢は、かえって選びにくくなることが知られている。

 

心理的トラップ:選択肢がたくさんあるとむしろ選べなくなる~マネーハック心理学15

 
僕は、この情報溢れる現代において、心より好きなもの、やりたいことを見つけるためには、頭のノイズを消していくことが、極めて有効な手段であると考えている。
 
頭の中にあるノイズを消していくことができれば自然と好きなもの、やりたいことは見つかっていくだろう。
 
しかし、頭の中がノイズで満たされてしまっていると、いかに様々なことにチャレンジしてみようとも、刺激的な体験をしようとも、好きなもの、やりたいことは見つからないだろう。
 
ここで、頭の中のノイズとはなんだ。という話をすると、人は頭の中でぶつぶつ呟く習性がある。大体の場合が、自分に対して都合の良いように考えるか、自分を擁護するか、現状への不満である。このぶつぶつ呟く存在は、宗教、哲学の世界では、エゴとか自我と呼ばれている。このエゴがひっきりなしに頭の中で、あれもやりたいこれもやりたい、あれはダメこれはダメとぶつぶつ呟いているのだ。
 
このエゴの強度や方向性は人により異なる。エゴの方向性は人の嗜好と性格につながり、エゴの強度はその人間の成熟度につながる。
 
頭の中のノイズはほぼ全てがこのエゴから来る。エゴが強力であれば、頭の中がノイズで満たされ、目の前の存在、体験を素直に受け入れることができない。そして、目の前の存在にある、一見隠れた魅力に気がつくことができなくなるのである。
 

人間は、今、目の前にある存在に対する感受性なくしては、本当にやりたいことや好きなものを見出すことができない。目の前に存在する様々な美に気づくことができなくなるのである。

 

目の前にある存在と感受性の例として、味覚を考えてみよう。頭の中であれこれ考えた状態で食事をするのと、頭の中で何も考えずに目の前の食事に集中して食べるのとどちらが良いか。

 

頭の中であれこれ考えながら食事をした場合、自分の食事に対して、食べてはいるけれども味覚をほとんど働かせることなく、ただ習慣的に食べていることになる。

 
ごちゃごちゃ考えている状態で、強烈な味付けに反応することがあっても、自分が食べている食材の味を味わい、噛みしめることはできるだろうか。
 
これらの違いは、一見、何気ない違いであるが、味覚の感じ方、すなわち感受性が大きく異なってくる。
 
そして、これは周りから指摘されることはほとんどない。周りから見て、考えながら食べているのか、何も考えずに、味を感じて食べているのか。周囲の人はどうやっているか知らないままに、いろんなことを考えながら食事をする。食事だけじゃない。目の前に異性がいる時でさえ、ごちゃごちゃと別の異性のことを考えてしまうこともあるだろう。
 
恋愛でもこれは一緒なんだ。目の前の異性に対して、その人だけを真剣に見つめていくか、その人と素晴らしい関係を築くことに意識を向けられるか。それとも、その人以外の人を考えたり、他のことを考えているか。
 
目の前のことに対して、目を背け始める時、その前後では、頭の中はノイズで満たされているだろう。目の前の存在の魅力に気がつかぬままに・・・。
 
好きなもの、やりたいことというものは、最初から完全に整っているとは限らない。

 

  • 自分が活躍できて、激務じゃなくて、待遇が良くて、楽しい仕事
  • 器量が良くて、優しくて、美人の女性
  • 仕事ができて、優しくて、頼れる家庭思いの男性
  • 安くて、美味しくて、栄養価の高い食事

こういう明らかにアタリみたいなものは、世の中そうそう転がってない。

だが、エゴから来る頭の中のノイズは理想的なものを求めようとする。

 

自分の好きなもの、やりたいことを見つけるのを諦めてみるのも1つの手だ。諦めることで自然体になる。頭の中からノイズが消えていく。そして、目の前のことを受け入れる心ができるだろう。

 

諦めると見せかけて、諦めきれていない未練が残ったような態度じゃあ駄目だ。

「人生そんなにうまいようにいかないよ。」と人に諭しておいて、自分はまだ上手くいくように思っている人もいるだろう。

 

長くなってしまったが、まとめると、好きなことを見つけるには、頭の中のノイズを無くしていくことが大切である。

 

どうすれば頭のノイズが無くなるか。いかに自分のエゴを無くしていくかが大切になる。頭の中で考え事をしている自分に気づくことである。

 

自分で自分の思考がどう飛ぶかを観察できるようになれば、頭のノイズは晴れていくだろう。この頭の中の雲が晴れることで、あらゆる出来事に対して、魅力や充実感を感じるようになる。

 

好きなもの、やりたいことを見つけるというよりも、やること関わることが、好きになるし面白くなる。そんな状態になっていく。

 

思考の観察に関してはこちらでも述べている。

 考えられない。考える。考えない。

真面目な人は不真面目な人に違和感を感じる

生き方

真面目な人は不真面目な人に違和感を感じる。

言い換えると、真面目さを大切にしている人は不真面目な人を見ると不愉快に感じる。
優しさを大切にする人は優しくない人に気持ち悪さを感じる。
頑張っている人は頑張っていない人に苛立ちを感じる。
ルールを守る人はルールを守らない人に強烈な反感を覚える。
 
逆に
 
不真面目な人は、真面目に生きてどうなるんだと言い
優しくない人は、優しさなんて上辺だけだと言い
頑張っていない人は、頑張ったところで報われないと言う
ルールを破る人は、ルールなんて破るもんさって言う
 

ここに、僕は物理の力学で言う「作用反作用の法則」のようなものが人間の思考にも働いているんじゃないかって感じるんだ。

 
「作用反作用の法則」とは、物体に力を作用させた時に、その反対向きにも力がかかる法則である。
 
人の思考に関しても、作用反作用の法則のごとく、反対の概念に対して反感を感じるようにできているんじゃないかと思う。
 
ここで、気をつけたいのが、頑張っているとか、協力しているとか、優しくしているとか、自分が前向きに捉えている価値観が自分を縛ってしまうことである。
 

人は前向きに生きようとすると、様々なルールを自分に課す。

 
努力しよう。真面目に生きよう。約束を守ろう。優しくしよう。
 
これらは、良い性格、良い意識として、尊重されるものであるが、これが自分を縛りつける可能性のあることになかなか気づくことは難しい。
 
しかも、この真面目とか優しいという定義も自分の中で、これが優しさだとか、真面目さだと決めている。
 
多くの人は、自分の行動や思考に対して気づかぬうちに正当化を行ってしまうため、自分は優しくないとか真面目じゃないとかあまり思わない。多少感じても、人間こんなもんだと自分に都合良く解釈する。
 
その中で、あぁ、真面目さとか優しさって大切なんだなぁって思った人が、周りから見ていても突出して真面目になったり、優しくなったりする。
 
明らかにこの人真面目だなーとか、優しいなーという人は、かなりの確率で不真面目な人や優しさが欠ける人を拒絶する。
 
ここで、自分でも意識することなく真面目になれている人や、意識することなく人に優しくなれている人は例外で、そのような人は自分と反対の性格を見ても何も感じない。
 
 
人の思考の傾向からすると、強烈に負の方向に自信を持つ例は少ない。不真面目に生きることに自信を持つことは難しい。優しくない人は人に冷たくすることに自信を持つことは難しい。人は周囲に嫌われたくないという意識もある。
 
しかし、強烈に正を意識するパターンは多い。俺は頑張っている。俺は真面目だ。俺は優しい。強烈に、頑張ることが大切だとか、優しいことが大切だとか、信念できる。人は、自分の大切にすることをしばしば人にも強要してしまう。
 

生き過ぎた正義感、正の性格は、自分も苦しくなるし、周りも苦しむこととなる。

 
太陽も強すぎると、暑い。ほどほどが良い。
 
一番良いと感じるのは、やはり、真面目に生きようとか、いちいち宣言したり強く思っていなくても、結果真面目な生き方をしていたり、優しくしようと意識していなくても、自然と優しく接することができる状態である。自然体ですね。
 
ただあるがまま。
 
 

漠然と生きると社会や他人への批判が積もる

生き方
日々漠然と生きていると、社会や他者に対する批判や否定の心が積もってくる。

なぜなら、人が漠然と生きる時、自分の人生に対して曖昧でわからないという印象がある一方、批判や否定は具体性が高くわかりやすいからである。

漠然とした人生とは、自分の中でこれが正しいという生き方を決めれずに、ただなんとなく幸せに生きれたらいいなぁとか、楽しければいいやと考える、甘い生き方と判断される生き方である。

この生き方は、一見、今を生きているように見えるが、今の瞬間瞬間を生きるのではなく、今より少し先を見て、目先の楽しさや楽さを追い求めてしまう生き方となる。

明確な目標を持つわけでもなく、本当に今全てを受け入れる覚悟も無い。ただとにかく、なんとなく良い人生が送れたらいいなぁと漠然と期待する生き方。

このような生き方をすると、不思議と社会に対する不満を感じ、他者の欠点が目につくようになる。結果的に、良い人生どころか、社会ってほんと生きづらいところだなぁとか、周りの他人に対して、あんまりちゃんとして生きていないんだなぁといった印象を抱え、人生ってあまりつまらないものだなぁ、辛いものだなぁと漠然と感じるようになる。

そうして、人生面白くないなぁと感じるようになると、人生をもっと良くしなきゃいけないなぁと考えはじめる。

そして、人生をもっと良くしたいと考えると、周りに対して、もっと良いところを見つめるようにするとか、やりたいこととか明確な目標を意識して生きるようにってアドバイスと出会う。

それでも、他人に対して良いところを見つめようと意識しても、数日経つと、やっぱり悪いところに目がいくようになってしまう。

明確な目標を持とうと思っても、様々なメリットデメリットとか価値とかリスクを考えはじめてしまって、自分が本当に受け入れられるような目標を立てることができない。


漠然と生きてしまうと、物や人、社会の価値観を疑う姿勢が知らず知らずのうちに身につくようである。

この疑う姿勢が批判や否定へとつながり、批判や否定が迷いへとつながる。いったん批判や否定の姿勢が染み付いてしまうと、明確に目標を決めることや、他人や社会に対して前向きに捉えることに対しても無意識的に疑ってしまう。それと同時に自分自身に対して、目標を決められるのか、前向きな姿勢を維持できるのか、疑ってしまう。

漠然とした生き方と批判の関係はスポーツで考えてみればイメージがつかみやすい。


漠然と野球の練習をしても上達は遅い。自分の中で、上手い選手を見本にしながら、選手としての理想形を決め、そこから、上達のポイントを抽出し、ポイントを意識してトレーニングすることが上達への近道である。

漠然と理想を決めず、あの選手のこれがダメ、この選手のこれがダメと、手当たり次第に欠点を探してみても、なかなか上達しないだろう。漠然と練習しても、周囲との比較に陥り、自分の欠点を平均値からの比較しかできない。このやり方では、常に比較から逃れることができず、曖昧な不安をいつも感じるようになり、選手として大成することがない。


スポーツであれば、自分の理想を抱くことが重要であることをすぐに理解できるが、これを人生に適用しようとしてもすぐに上手くはいかない。


どの人間が理想的なのか、どう生きるのが理想的なのか、自分は何ができるのか、社会では何が求められているのか


様々な価値観が入り混じり、現在の社会に感じる不安定性もあって、どう生きれば良いのか、人は漠然と迷うために、人生を漠然としたものとして捉えてしまう。


結果として、周囲との比較に陥り、環境や他者を批判的に捉えてしまう。


僕はこれまで漠然に生きてきて、周囲との比較に溺れてきた。環境に対して、批判的に捉えて、さもこれが解消すれば今の問題が解決できるかのように、批評を行ってきた。そして、心の中に、批判の意識がどんどん積もってくるのである。


漠然と生きると、様々な問題に対して違和感を感じ、それらにいちいち反論するような思考が頭の中で発生する。しかし、どう生きれば良いかを自分で決めることに抵抗感もある。


これまで生きてきて、人間としての生き方は、イメージがつくものの、社会の中での自分や人間の生き方は今だに漠然としている。


漠然としている裏には迷いとわからないという感覚が含まれている。決めることへの恐れが迷いを生む。

自分が批判的になっていると感じたら、それは自分が迷っているからであると、意識していきたい。