ねこ哲の思考メモ

気づきや日常をメモしていく。後に思考を整理するために。

アイデアと土中の野菜

アイデアと土中の野菜にはある共通点があると感じる。

それは、泥がついているから、食べる前、アイデアを発案する前に泥を落とす必要があることだ。

大根、じゃがいも、人参。これらは土の中で育ち、収穫後は泥だらけである。食べるためには、まず、泥を落とさなければならない。そして、皮を剥く必要がある。さらに、調理をすることにより、美味しく食べられるようになるのだ。

アイデアの発見するプロセスもこれに近いものがあると感じる。まず、人は何かアイデアを思いついたら嬉しく感じたり、自分すごいと感じる、自分が正しいとも感じる。これは、野菜でいう泥のようなもの。自分のエゴや感情である。この泥がアイデアにこびりついた状態で人に提案すると、大抵の人は違和感を感じる。ほぼ確実に温度差がある。

自分は自分で思いついたアイデアすごいと感じているのに、他人はそうは感じないようだ。とふと感じ、その後幾つかの思考パターンに分かれる。

  • こいつは見る目が無い人だ
  • 自分のアイデアそんなにすごくないのかなぁ
  • 誰もこのアイデアの良さをわかってくれない
これはアイデアじゃなくても、自分の体験談を話す場合もそう感じることがあるだろう。

このようになる原因として2つ
  • アイデアそのものがつまらない。素材そのものが不味い。
  • アイデアを適切に相手に伝わるようにしていない。泥がついたまま伝えようとしている。

人はアイデアを思いついた時、気持ちが高揚する。良い体験をした時もそうだ。それで、そのままの勢いで人に伝えてしまい、受け入れられないことがある。

アイデアも、他人がその価値をわかるように、しっかりと泥を落として、調理をすることだ。

しっかりと泥を落として、皮を剥くと、中身が腐っていることに気づくこともある。

自分が見出したアイデアを、しっかりと客観的に観察してみることだ。これで、アイデアにつく泥がとれてくる。

泥が無くなると、良いアイデアとか悪いアイデアとか正しいとか正しくないと感じることが無くなってくる。

こうした状態で人に伝えれば、仮に相手に受け入れられなくても、冷静になぜ受け入れられないかを分析することができる。

繰り返しになるが、

土から野菜を引き抜くと、泥がついてくる。自分がアイデアを発想したとき、エゴや感情の泥がついてくる。上手く調理することで、人に受け入れられるようになるだろう。


思考をPCに喩えて スペースとソフトウェアとエゴ

人のパソコンを思考に喩えてみる。

特に、人のエゴとパソコンのソフトウェアの関係に注目する。

人の思考をパソコンで考えた場合、パソコンでいうメモリが人の思考のスペースにあたると考えられる。

CPUやハードディスクなど、その他の部品も含めて考えてみると、各自のスペックは次のようになると考えられる。

  • CPU   基本的な頭の処理速度。あまり人それぞれ違いはない。
  • メモリ  頭の思考スペース    人により大きく異なる 
  • ハードディスク   記憶容量    あまり人による違いはない
  • ソフトウェア    どのような思考パターンをするか  人により大きく異なる
  • ウィルス  思考パターンの中でも特に負の感情や強力なエゴを指す  人により大きく異なる
僕が感じるのは、人それぞれ、基本的なスペックは大差ないが、その思考の使い方により人の能力差を産むと捉えている。

ここでは、メモリとソフトウェアに焦点を当てよう。

パソコンで、ソフトをばんばん複数起動させてメモリをいっぱいにすると、パフォーマンスが著しく落ちることは多くの人が経験している。

また、ソフトやアプリをどんどんインストールして、常駐ソフトが知らない間に増えてきて、メモリが常にかなり消費されていることに気づいたという経験もあるだろう。

あとは、いきなりパソコンがめちゃくちゃ重くなったと感じたら、ウィルスに侵されていたとか。

だいたい人間の思考もこれと同じで、
思考している=メモリを消費していること
に近い

常日頃物事を考えてしまう人は半端なくメモリを消費している。

ここでは、考えてしまうという行為に対して、自分で考えようとして考えるのではなく、自分が考えさせられているという表現が正しいだろう。

それゆえに、いざ自分が思考をしようと思っても、その思考に使えるスペースは限られる。

実際、自分が日常的にあれこれ考えさせられるのことによって、パフォーマンスは落ちているのだが、日常的に思考することに慣れ過ぎてしまっていて、そのパフォーマンスが落ちていることに気づかない。

これは、逆に考えるとわかりやすい。できない人、能力が人はごちゃごちゃと思考を続ける人が多い。

これは、以前のエントリーである
と同じことである。

ちなみに、話は脱線するが、僕は何回も同じことを繰り返す。このブログを見ていただいている方は、お気づきだろう。今回の話も、結局、心を空にしていくことが大切だ。というオチになる。

本当に自分の思考を意識して観察することは難しい。自分が考えているのか、それとも考えさせられているのか、どちらなのかたいていわからないと感じる。

頭の中の呟きが、今の自分自身ではなく、自分の過去と経験からやってきた妄想であることに気づくことができた時、人は自分の本当の意識を悟ることができる。

あっ、これ俺じゃねぇ。って気づく。過去について、未来の不安について、他人についてごちゃごちゃ考えたがっている意識が自分の中にある。


このごちゃごちゃ考えたがっている意識は、宗教や自己啓発で様々な呼ばれ方をしている。自我とかエゴとか欲とか感情とか妄想念(マーヤ)とかインナーチャイルドとか。

で、このごちゃごちゃ考えようとしているエゴを上手くコントロールしようってのが意志

意志が弱いと、エゴが考えるままに考えさせられてしまって、たいていは自分に甘くなって堕落したり、努力が継続しない。それに加えて、集中力も出てこないだろう。エゴが強力である場合も同じような状況になる。


話を元へ戻す。


人は自分の中にあるエゴを意識し続けられない限り、自分が思考しようと思わなくとも、勝手に思考し続ける。

しかし、自分で自分が勝手に思考していることに気づいて、その思考をとめることができれば、自分の思考のスペースはフルに活用できるだろう。

その時はもはや、何も考えるという意識もなく、目の前の物事に対して意識を向けられ、考えを閃くことができる。

買ったばかりのPCは、サクサク動くが、しばらく使い続けると重くなるのと同様に、人の思考も生まれたてはサクサク処理できるが、ある一定時期から理解力と記憶力が落ち始めてくる。

だいたい3歳前後までは、ほとんど自我というものが存在しない。そのため、言語を無意識的にすごいスピードで理解できるし、音楽やスポーツも驚異的なスピードで身につけることができる。

この時期まではほとんどの人は記憶がないことがわかる。だいたい4歳ごろから、自分の認識できる記憶が発生する。自我、エゴは記憶や経験からやってくるため、4歳5歳あたりからエゴが徐々に顔を出して、強くなっていく。


そして、このエゴが出ることにより、人の頭は、思考によって埋め尽くされていく。

パソコンで言えば、気づけばどんどん常駐ソフトが起動するようになってきて、マシンメモリが圧迫されている状態となる。

思考の中でも、負の感情が絡む思考はウィルス並のネガティブなパワーを発揮する。

感情が強烈に働いている場合、エゴが全面に出ている場合、多くの人は思考をやめたくてもやめられない。ひたすらにぐるぐると同じことを思考し続ける。


ネガティブな思考はパソコンでいうウイルスのごとく思考を蝕む。こうなっている場合は、自分の能力を全く発揮できないだけではなく、他人に危害を及ぼす可能性すらある。


終わりに


今回の話は、読んでいて気持ち悪いと感じる人もいるかと思う。

それは誰がそう感じたのか。

なぜそう感じたのか。

そう感じる人は、自分は自分以外の何者でもないと強く信念する。

自分の中にはうすうすエゴの存在を感じるが、それをひっくるめて自分自身なのだと信ずる。

もともと、この自分の中のエゴの存在に気づくことは難しい。

絶えず鳴り止まぬ思考を止めてみることで、はじめて、それまでの思考がエゴからくるものであったと認識する。

都会の中では夜空を見ても星があまり見えない。周りに光がありすぎるから。都会の人は今見ている夜空が空だと認識する。しかし、いったん都会から離れ、全く人工の光の無く、空気の澄んだ山の上で星一面の夜空を見ると、空の本当の姿を知ることになるだろう。

エゴに埋もれた思考は、その思考そのものが自分自身だと感じる。心を澄まして、自分の思考が自分自身でないことを感じ取ることができれば、その人は人の本当の姿を知る。

エゴの思考に気づく簡単な方法は、意識的に深呼吸を続けることである。

深呼吸を続けると決めたつもりが、気づけば別のことを考えている。

下手をすると、その別のことを考えはじめて連想が続き、自分で呼吸を続けようと思ったことさえ忘れてしまっている。

ここで、何で自分は呼吸を続けようと考えたのに、思考し始めて、呼吸することを忘れてしまうのか?と考える。


これを繰り返すと、あぁ、自分てこんな思考パターンしているんだなと、自分の思考パターンに気づくようになる。それと同時に、他人の思考のパターンにも、同様の傾向があることを発見するだろう。

これを進めていくと、あぁ。もともとみんな同じ頭の構造しているんだなぁとわかってくる。ベースは同じで、どんなソフトウェアが入っているか。メモリをどんな感じに使っているか。


自分を理解することが、他人を理解すること、人間そのものを理解することにつながる。

心を空にして、深呼吸。

好きなもの、やりたいことを見つからない人へ

現代に生きる人で、自分の本当に好きなものはなんだろうか?本当にやりたいことはなんだろうか?と自分に問いかける人は、昔に比べて多くなっているだろう。
 

科学技術が発達してきて、誰でもあらゆる情報が手に入るようになり、多様な人生の選択肢があるように感じる現代は、表面的な自己満足は得やすいものの、自分の心の底から満たされるような人生を歩むことは難しくなっている。なぜなら、あまりにも多い情報―これらは社会から発信される情報だけでなく、身近な友人達から受け取る情報も含まれる―は、人を迷わせる元となるからである。情報が多くなれば選択肢は多くなる、選択肢が多くなれば人は迷う。心理学的にもありすぎる選択肢は、かえって選びにくくなることが知られている。

 

心理的トラップ:選択肢がたくさんあるとむしろ選べなくなる~マネーハック心理学15

 
僕は、この情報溢れる現代において、心より好きなもの、やりたいことを見つけるためには、頭のノイズを消していくことが、極めて有効な手段であると考えている。
 
頭の中にあるノイズを消していくことができれば自然と好きなもの、やりたいことは見つかっていくだろう。
 
しかし、頭の中がノイズで満たされてしまっていると、いかに様々なことにチャレンジしてみようとも、刺激的な体験をしようとも、好きなもの、やりたいことは見つからないだろう。
 
ここで、頭の中のノイズとはなんだ。という話をすると、人は頭の中でぶつぶつ呟く習性がある。大体の場合が、自分に対して都合の良いように考えるか、自分を擁護するか、現状への不満である。このぶつぶつ呟く存在は、宗教、哲学の世界では、エゴとか自我と呼ばれている。このエゴがひっきりなしに頭の中で、あれもやりたいこれもやりたい、あれはダメこれはダメとぶつぶつ呟いているのだ。
 
このエゴの強度や方向性は人により異なる。エゴの方向性は人の嗜好と性格につながり、エゴの強度はその人間の成熟度につながる。
 
頭の中のノイズはほぼ全てがこのエゴから来る。エゴが強力であれば、頭の中がノイズで満たされ、目の前の存在、体験を素直に受け入れることができない。そして、目の前の存在にある、一見隠れた魅力に気がつくことができなくなるのである。
 

人間は、今、目の前にある存在に対する感受性なくしては、本当にやりたいことや好きなものを見出すことができない。目の前に存在する様々な美に気づくことができなくなるのである。

 

目の前にある存在と感受性の例として、味覚を考えてみよう。頭の中であれこれ考えた状態で食事をするのと、頭の中で何も考えずに目の前の食事に集中して食べるのとどちらが良いか。

 

頭の中であれこれ考えながら食事をした場合、自分の食事に対して、食べてはいるけれども味覚をほとんど働かせることなく、ただ習慣的に食べていることになる。

 
ごちゃごちゃ考えている状態で、強烈な味付けに反応することがあっても、自分が食べている食材の味を味わい、噛みしめることはできるだろうか。
 
これらの違いは、一見、何気ない違いであるが、味覚の感じ方、すなわち感受性が大きく異なってくる。
 
そして、これは周りから指摘されることはほとんどない。周りから見て、考えながら食べているのか、何も考えずに、味を感じて食べているのか。周囲の人はどうやっているか知らないままに、いろんなことを考えながら食事をする。食事だけじゃない。目の前に異性がいる時でさえ、ごちゃごちゃと別の異性のことを考えてしまうこともあるだろう。
 
恋愛でもこれは一緒なんだ。目の前の異性に対して、その人だけを真剣に見つめていくか、その人と素晴らしい関係を築くことに意識を向けられるか。それとも、その人以外の人を考えたり、他のことを考えているか。
 
目の前のことに対して、目を背け始める時、その前後では、頭の中はノイズで満たされているだろう。目の前の存在の魅力に気がつかぬままに・・・。
 
好きなもの、やりたいことというものは、最初から完全に整っているとは限らない。

 

  • 自分が活躍できて、激務じゃなくて、待遇が良くて、楽しい仕事
  • 器量が良くて、優しくて、美人の女性
  • 仕事ができて、優しくて、頼れる家庭思いの男性
  • 安くて、美味しくて、栄養価の高い食事

こういう明らかにアタリみたいなものは、世の中そうそう転がってない。

だが、エゴから来る頭の中のノイズは理想的なものを求めようとする。

 

自分の好きなもの、やりたいことを見つけるのを諦めてみるのも1つの手だ。諦めることで自然体になる。頭の中からノイズが消えていく。そして、目の前のことを受け入れる心ができるだろう。

 

諦めると見せかけて、諦めきれていない未練が残ったような態度じゃあ駄目だ。

「人生そんなにうまいようにいかないよ。」と人に諭しておいて、自分はまだ上手くいくように思っている人もいるだろう。

 

長くなってしまったが、まとめると、好きなことを見つけるには、頭の中のノイズを無くしていくことが大切である。

 

どうすれば頭のノイズが無くなるか。いかに自分のエゴを無くしていくかが大切になる。頭の中で考え事をしている自分に気づくことである。

 

自分で自分の思考がどう飛ぶかを観察できるようになれば、頭のノイズは晴れていくだろう。この頭の中の雲が晴れることで、あらゆる出来事に対して、魅力や充実感を感じるようになる。

 

好きなもの、やりたいことを見つけるというよりも、やること関わることが、好きになるし面白くなる。そんな状態になっていく。

 

思考の観察に関してはこちらでも述べている。

 考えられない。考える。考えない。

真面目な人は不真面目な人に違和感を感じる

真面目な人は不真面目な人に違和感を感じる。

言い換えると、真面目さを大切にしている人は不真面目な人を見ると不愉快に感じる。
優しさを大切にする人は優しくない人に気持ち悪さを感じる。
頑張っている人は頑張っていない人に苛立ちを感じる。
ルールを守る人はルールを守らない人に強烈な反感を覚える。
 
逆に
 
不真面目な人は、真面目に生きてどうなるんだと言い
優しくない人は、優しさなんて上辺だけだと言い
頑張っていない人は、頑張ったところで報われないと言う
ルールを破る人は、ルールなんて破るもんさって言う
 

ここに、僕は物理の力学で言う「作用反作用の法則」のようなものが人間の思考にも働いているんじゃないかって感じるんだ。

 
「作用反作用の法則」とは、物体に力を作用させた時に、その反対向きにも力がかかる法則である。
 
人の思考に関しても、作用反作用の法則のごとく、反対の概念に対して反感を感じるようにできているんじゃないかと思う。
 
ここで、気をつけたいのが、頑張っているとか、協力しているとか、優しくしているとか、自分が前向きに捉えている価値観が自分を縛ってしまうことである。
 

人は前向きに生きようとすると、様々なルールを自分に課す。

 
努力しよう。真面目に生きよう。約束を守ろう。優しくしよう。
 
これらは、良い性格、良い意識として、尊重されるものであるが、これが自分を縛りつける可能性のあることになかなか気づくことは難しい。
 
しかも、この真面目とか優しいという定義も自分の中で、これが優しさだとか、真面目さだと決めている。
 
多くの人は、自分の行動や思考に対して気づかぬうちに正当化を行ってしまうため、自分は優しくないとか真面目じゃないとかあまり思わない。多少感じても、人間こんなもんだと自分に都合良く解釈する。
 
その中で、あぁ、真面目さとか優しさって大切なんだなぁって思った人が、周りから見ていても突出して真面目になったり、優しくなったりする。
 
明らかにこの人真面目だなーとか、優しいなーという人は、かなりの確率で不真面目な人や優しさが欠ける人を拒絶する。
 
ここで、自分でも意識することなく真面目になれている人や、意識することなく人に優しくなれている人は例外で、そのような人は自分と反対の性格を見ても何も感じない。
 
 
人の思考の傾向からすると、強烈に負の方向に自信を持つ例は少ない。不真面目に生きることに自信を持つことは難しい。優しくない人は人に冷たくすることに自信を持つことは難しい。人は周囲に嫌われたくないという意識もある。
 
しかし、強烈に正を意識するパターンは多い。俺は頑張っている。俺は真面目だ。俺は優しい。強烈に、頑張ることが大切だとか、優しいことが大切だとか、信念できる。人は、自分の大切にすることをしばしば人にも強要してしまう。
 

生き過ぎた正義感、正の性格は、自分も苦しくなるし、周りも苦しむこととなる。

 
太陽も強すぎると、暑い。ほどほどが良い。
 
一番良いと感じるのは、やはり、真面目に生きようとか、いちいち宣言したり強く思っていなくても、結果真面目な生き方をしていたり、優しくしようと意識していなくても、自然と優しく接することができる状態である。自然体ですね。
 
ただあるがまま。
 
 

漠然と生きると社会や他人への批判が積もる

日々漠然と生きていると、社会や他者に対する批判や否定の心が積もってくる。

なぜなら、人が漠然と生きる時、自分の人生に対して曖昧でわからないという印象がある一方、批判や否定は具体性が高くわかりやすいからである。

漠然とした人生とは、自分の中でこれが正しいという生き方を決めれずに、ただなんとなく幸せに生きれたらいいなぁとか、楽しければいいやと考える、甘い生き方と判断される生き方である。

この生き方は、一見、今を生きているように見えるが、今の瞬間瞬間を生きるのではなく、今より少し先を見て、目先の楽しさや楽さを追い求めてしまう生き方となる。

明確な目標を持つわけでもなく、本当に今全てを受け入れる覚悟も無い。ただとにかく、なんとなく良い人生が送れたらいいなぁと漠然と期待する生き方。

このような生き方をすると、不思議と社会に対する不満を感じ、他者の欠点が目につくようになる。結果的に、良い人生どころか、社会ってほんと生きづらいところだなぁとか、周りの他人に対して、あんまりちゃんとして生きていないんだなぁといった印象を抱え、人生ってあまりつまらないものだなぁ、辛いものだなぁと漠然と感じるようになる。

そうして、人生面白くないなぁと感じるようになると、人生をもっと良くしなきゃいけないなぁと考えはじめる。

そして、人生をもっと良くしたいと考えると、周りに対して、もっと良いところを見つめるようにするとか、やりたいこととか明確な目標を意識して生きるようにってアドバイスと出会う。

それでも、他人に対して良いところを見つめようと意識しても、数日経つと、やっぱり悪いところに目がいくようになってしまう。

明確な目標を持とうと思っても、様々なメリットデメリットとか価値とかリスクを考えはじめてしまって、自分が本当に受け入れられるような目標を立てることができない。


漠然と生きてしまうと、物や人、社会の価値観を疑う姿勢が知らず知らずのうちに身につくようである。

この疑う姿勢が批判や否定へとつながり、批判や否定が迷いへとつながる。いったん批判や否定の姿勢が染み付いてしまうと、明確に目標を決めることや、他人や社会に対して前向きに捉えることに対しても無意識的に疑ってしまう。それと同時に自分自身に対して、目標を決められるのか、前向きな姿勢を維持できるのか、疑ってしまう。

漠然とした生き方と批判の関係はスポーツで考えてみればイメージがつかみやすい。


漠然と野球の練習をしても上達は遅い。自分の中で、上手い選手を見本にしながら、選手としての理想形を決め、そこから、上達のポイントを抽出し、ポイントを意識してトレーニングすることが上達への近道である。

漠然と理想を決めず、あの選手のこれがダメ、この選手のこれがダメと、手当たり次第に欠点を探してみても、なかなか上達しないだろう。漠然と練習しても、周囲との比較に陥り、自分の欠点を平均値からの比較しかできない。このやり方では、常に比較から逃れることができず、曖昧な不安をいつも感じるようになり、選手として大成することがない。


スポーツであれば、自分の理想を抱くことが重要であることをすぐに理解できるが、これを人生に適用しようとしてもすぐに上手くはいかない。


どの人間が理想的なのか、どう生きるのが理想的なのか、自分は何ができるのか、社会では何が求められているのか


様々な価値観が入り混じり、現在の社会に感じる不安定性もあって、どう生きれば良いのか、人は漠然と迷うために、人生を漠然としたものとして捉えてしまう。


結果として、周囲との比較に陥り、環境や他者を批判的に捉えてしまう。


僕はこれまで漠然に生きてきて、周囲との比較に溺れてきた。環境に対して、批判的に捉えて、さもこれが解消すれば今の問題が解決できるかのように、批評を行ってきた。そして、心の中に、批判の意識がどんどん積もってくるのである。


漠然と生きると、様々な問題に対して違和感を感じ、それらにいちいち反論するような思考が頭の中で発生する。しかし、どう生きれば良いかを自分で決めることに抵抗感もある。


これまで生きてきて、人間としての生き方は、イメージがつくものの、社会の中での自分や人間の生き方は今だに漠然としている。


漠然としている裏には迷いとわからないという感覚が含まれている。決めることへの恐れが迷いを生む。

自分が批判的になっていると感じたら、それは自分が迷っているからであると、意識していきたい。





批判の気持ち悪さ

日常的に、僕らは人が批判される光景を目のあたりにする。リアルでも、メディアでも、ネットでも。

なんだろう?この気持ち悪さは。

人を批判しても悪くないという風潮。中には、批判をすることで、他人の欠点を是正するという期待も込められているかもしれない。

が、このような「お前のために言っている」ことには、正当化が混じってくるから、批判はややこしいものとなる。

僕が批判の例として気持ち悪さを感じるのは以下のようなケースである

  • 国会で他者の意見の批判ばかりに注力している光景
  • 親や先輩や上司、先生といった立場が上の物が、教育や君のためだという名目を振りかざした批判
  • ネットにおける炎上
  • ネットでの動画や商品に対して浴びせる批判

このような批判が起きるケースの中で、僕が批判する行為に感じている違和感は次のものだ。

  • 批判のやりすぎ。批判することが快楽になっている場合が目立つ。
  • 言動に対する批判がその人の人格否定につながる場合。
  • ただのあら探し


批判の分類

リアルなのかネットなのか、ネットでは、対面で言う批判と陰で言う批判がある。またネットでも記名なのか匿名なのかで分類ができる。

リアル  対面     アドバイスに見せかけた批判など。集団で攻める場合がある。
リアル  陰     陰口   批判が多い
ネット  記名    批判は少ない
ネット  匿名     批判が多い。

こう分類してみると、陰口や匿名の批判が多いようだ。また、単独で批判できる人は少ない。ネットの記名の場合やリアルの場合は、批判を表に出すことで、自分の信頼や評判が悪くなることを恐れている。

単独で行われる批判は、君のためだとか、お前のためというように、アドバイスに見せかけた批判が行われる。これは、自分の優位な立場を利用して行われる。

結局、批判は、自分が優位あるいは安全な立場を確保して、他人を攻撃する行為となる。


批判のやりすぎ、人格否定


一度批判を始めると、批判をやり過ぎるパターンが多い。人の言動を批判し始めて、過去の言動も追求し、批判の対象の人間の人格否定をはじめる。


これらは、他人の批判をすることにより、自分の中にある攻撃的な本能が発動し、相手をいたぶることに快感を感じはじめるからであると僕は考えている。


ただのあら探しに関して

中には、ウォーリーを探せをやってるかのごとく、人や物の欠点を指摘する人がいる。

これもまた批判が快感になっている場合だ。間違い探しをして、喜んでいるような状態。

心が未熟な者は、人のあら探しをして喜ぶパターンに陥る。


おわりに

今回、僕が日常様々なところで見かける批判に対して、漠然と感じていたことを言葉にした。

僕は、批判自体全てが悪いとは思っていないが、多くのシチュエーションにおいて、他者をいたぶるために批判が用いられており、悪い使われ方が多い。


そもそも何のために人は批判をするのか?

イラっとしたから?

相手の気づいていないことに気づかせてあげたいから?

自分の正しさを主張したいから?

自分の嫌いな人を困らせたいから?


最初は悪意がなくとも、むしろ、善意でアドバイス、批評を行っていても気づけば批判になっている場合もある。


こう、落ち着いて考えると、人の批判は不毛であると感じ、人の批判はやめようと思う。

しかし、実際、人の批判をする時は、心地良さもあり、悪いと思いながらもなかなかやめられない。

特に、集団で特定の対象を批判する場合、集団で意識を共有する一体感と連帯感があり、さらに攻撃対象をいたぶる快感も加わる。

そして、批判は、新たな批判を生み、批判する側も、批判しているのを傍から見る側も、自分が批判される側にまわるときの恐怖を抱く。

負の連鎖を開始させ、促進させる「批判」。。。

批判には気をつけていこう。

大切にするってどうゆうこと?

ふと感じたのが、大切ってどういうことだ?意味わからなくないか?ってことです。

 
僕は自分の時間を大切にしている。
あなた、私のこと大切にしてる?
僕はこの旅の思い出を大切にするよ。
このアイテムは大切だ。
 
実際のアクションを考えた時に、何するの?ってなる。
 
大切にするって、なんだろう?
 
 
大事にするという表現が近い。
 
 

この大切にすることの反対を考えてみると、無駄や粗末というイメージが沸く。

 
大切にすることは、無駄にしないこと。これはなんとなくわかる。時間や物といった、非生物に対して、用いられるニュアンスだ。
 
時間を大切にする。物を大切にする。= 時間を無駄にしない。物を粗末にしない。
 
人に対して用いる場合の大切にすることは、無駄にしないこととは意味が異なってくる。
 
家族を大切にする。
恋人を大切にする。
友達を大切にする。
 
こちらは、必要とするとか、優先するといった表現になるだろうか。人によっては、愛するという表現になるかもしれない。
 

人による言葉のイメージの違いは、誤解につながる。

 
僕は、大切にするって言葉は響きは良いのだが、意味が広すぎて、人との誤解を生みやすいと感じている。
 
例えば、男性が忙しい忙しいと言い、ちょっと不仲になりかけている夫婦がいるとする。
 
女性が私のこと大切?と男性に聞いても、男性と女性で「大切にする」ことのイメージが違うので、女性の望む返答はこないだろう。
 
こうなると、男性は、じゃあ、おれはどうしたらいいんだ?って尋ねる。女性は、わからない。って言うか、仕事を変えろとか、もっと家庭を大切にしてと言う。
 
男性は、家族を大切にしているさ。だから忙しくしているんだと言う。
 
 

男にとって、大切にするってのは、守るってことか。女にとって、大切にするってのは、愛するってことか。

 
そう考えてみると、大切にするってこと、なんとなくイメージがついてきた。
 
まとめると
 
物、お金、時間 の大切にする  =   無駄にしない
男性の人に対する大切にする =  守る
女性の人に対する大切にする =  愛する
 
 
ここで、友達に関しては、ちょっとニュアンスが違うかな。
 
いや、こう、まとめてみたが、あんまり意味がわからなくなってしまった。
 
無駄にしないの、「無駄」も、「大切」に近いぐらい、意味が広いし。。。
 
大切にするってしょっちゅう使うけども、あんまり意味がわからずに使っているものだなぁ。
 
このようななかなか意味が漠然とした表現は、日本の以心伝心や会話の空気を作り出しているのに一役買っているかもしれない。
 
 

原始人にパソコンを与えたらどうなるか?

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原始人にパソコンを与えたらどうなるだろうか

 
今の最新スペックのノートパソコンを原始人に渡す。
 
まず、わけもわからず適当にぐちゃぐちゃ押したり、叩いたりしてぶっ壊すだろう。
 
壊してしまったら、もう1つパソコンを渡す。何回かやるうちに、電源ボタンに気づき、画面がつく。そしてこれに怯える。
 
しばらくすると、わけもわからないまま用いて、壊すかもしれないが、次第次第に使い方を少しずつ理解してくる。
 
まず、どうやったら壊れてしまうのか。というシンプルなところから、キーボードを押すと文字が入力されるということを理解しはじめるだろう。
 
次第にこのノートパソコンに飽きて何もいじらないやつもいれば、夢中にノートパソコンをいじるやつも出るだろう。
 
それでも、いじった所でまだまだ彼らは使いこなせない。少しずつ仕組みを理解していくことはできるだろうが、完全にそのパソコンの仕組みを理解するには数十年以上かかるだろう。膨大な時間と試行錯誤が必要だ。
 

なぜなら、彼らはパソコンを創っていないから。

 
そう。彼らはパソコンを創り出していない。しかも、周りにパソコンについて知る者は皆無である。だから、どの部品がどのような役割になっているか、どのソフトがどのような役割になっているかということを到底理解することができない。
 
壊して、分解して、エラーが出て、壊して、我武者羅にやって直して、という試行錯誤をひたすら続けて、少しずつ少しずつ、部品やソフトの役割を知るだろう。
 
そして、少しずつ理解して理解して、使いこなせるようになっていく。
 
ここまで読むと、僕の言わんとすることがバレバレだと思う。
 

そう、この原始人にパソコンの例は、人間が気がついたら人間でしたっていうことの例えなんだ。

 

僕ら人間は、人間を創ったわけじゃない。気がついたら人間だった。

 
それで、自動である程度生命活動を確保できるような本能なるものはあらかじめ植えつけられている。
 
それにより、人間は生活し、人間は人間を産み出すことができているが、人間が人間を設計して創りだしたわけじゃない。人間の誰もが、人間の創り方を知らない。
 
ここは、誰かが人間や動物を設計したんだろう。多分、その存在は、宇宙の全ての法則から何やら設計したんじゃないかと思う。
 
設計しないと、こんな複雑でありながら、バランスがとれているもの創れないもの。
 
宇宙も。生命体も。
 
ここで誰が設計したのかってのは、色んな宗教で扱われているので、その話はここでは置いておこう。
 
要は、僕ら人間が人間を創ったわけじゃないから、人間に関して知らないことだらけわからないことだってことだ。
 
そして、理解が深まれば深まるほど、人間として、どうすれば自分自身が向上するのか、壊れるのか、変わるのかがわかってくる。
 
例えば、パソコンを設計した技術者であれば、どこをどういじるとどうなるかがわかる。PC本体の部品やソフトの動作が不調である時は、どう処理すれば改善するのかがわかる。
 
これは、人間の例で考えると肉体関係は医学であり、心の関係は心理学や哲学になるだろう。
 
どうなったら、どうなる。どうなったら、どうなる。このような試行錯誤を人類は常に繰り返している。
 
病気が発症したら、治療をする。戦争が起きたら、もう戦争は起きないように制度を整える。喧嘩をして、仲直りする。いたずらして、怒られる。ネガティブに考えると、人生がうまくいかなくなる。人にしつこくすると嫌われる。
 
いろんな困難を乗り越えて、いろんな過ちを犯して、試行錯誤を通して、人は、人間を、人生を理解していく。
 
原始人にパソコンを与えると、試行錯誤になるように・・・。 わからないから、ミスすることもあるだろう。自分や人間関係を壊してしまうこともあるだろう。 
 
ミスしても、壊してもそこから学ぶことだ。そのミスを通して、その裏側にある原因、仕組みを理解していくことだ。
 
あー。俺が全然人間、人生について理解してないのは、俺が人間創ったわけじゃないからだーって捉えられると気が楽になりますよ!そうなると、謙虚の心が芽生えていく。
 

余計なことを喋らないためには、感情を抑えることと寡黙さを意識すると良さそう

昨日の  考えられない。考える。考えない。 に引き続いて、今回は喋ることに関して理解を深めたい。まずは漠然と喋ることについて取り上げる。

 

喋られない。喋る。喋らない。
 
表現を変えて

人と合わせて喋れない。喋る。余計なことを喋らない。

こう捉えてみる。
 
喋る。話をする。これらの行為は、コミュニケーションの要であることは言うまでもないが、実際にどう振舞ったら良いのかなかなかわかりづらい。
 

喋った方がいいのか。喋らない方がいいのか。

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考えられない。考える。考えない。

考えられない。考える。考えない。
 
僕は、人のあらゆる行動において、考えられない。考える。考えない。といった3段階の状態があることを感じている。
 
他には、
食べられない。食べる。食べない。
喋れない。喋る。喋らない。
力を入れられない。力を入れる。力を入れない。
寝れない。寝る。寝ない。
 
ここで、僕は3つめの段階に注目している。3つ目の段階に、少し言葉を足してみよう。
 
考えられない。考える。余計なことを考えない。
食べられない。食べる。余計な量を食べない。
喋れない。喋る。余計なことを喋らない。
力を入れられない。力を入れる。余計な力を入れない。
寝れない。寝る。余計な時間は寝ない。
 
こう言葉を変えてみると、イメージがしやすくなると思う。
 
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批判を恐れる心。そして正当化。

批判を恐れる心。そして正当化。
 
僕は、心の底で、他者からの批判を恐れている。
 
自分の行う仕事に対して、自分はここまでやったいるから、これだけやっているからいいだろう。という意識がつきまとってくる。
 
この意識から、自分は外部からの批判を恐れると同時に、自分自身を正当化していることがわかる。
 
なんとなく意識の底で、批判を受けたときに、
 
じゃあ君はできるのかな?
とか
君はそう言うが、君の話にも欠点がある。
 
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結果や成果を求める人生

結果や成果を求める人生
 
人生において、何をするにも結果が大切、いくら頑張ったって結果が出なければ仕方ない。こう考えている人は多くはないだろうか。
 
 
実際、スポーツや将棋のようなルールが明確である競争、競技の場であれば結果を求めるだろう。
 
あとは、受験や資格など、一律の条件下で競うのであれば、結果を求めるのは妥当である。
 
しかし、人生というものは、競争がメインなのだろうか?
 
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批判や疑いの裏側にはわからないという気持ちが隠れている

批判や疑いの裏にはわからないという気持ちが隠れている

僕らは、他人に対して、情報に対して反射的に疑ったり、批判してしまう傾向がある。

以前、(疑い深い人ができるまで)にて、疑うことと、わからないという感情に関して少し触れたが、今回は批判する心も含めて考えていきたい。

人は、不思議なことに、ネガティブに生きなさいとか、人を批判して生きなさい、と教えられていないのに、否定的に、批判的に生きてしまう傾向がある。

この理由として、無知であるがゆえに、わからないという感情があるがゆえに否定や批判が生まれるのではないかと考えられるのである。


スポーツの観戦をイメージしていただきたい。

例えば、野球を観戦していて、プロの選手のミスに対して批判をする場合を考える。
ここで、批判が目立つのは、野球をよく知らない人間だろう。

あとは、野球好きのおっさんとか。


どちらも、プレーする人の目線に立つイメージができない人だ。プレーする人の感覚がわからない。

なぜ、どのようにミスが生まれるのか、その過程や理由がわかるとき、批判的な心は消えていく。

人が他人に対して文句を言う時、実際に自分がやったことがないことに対して文句を言う場合が多い。

否定や批判の心を無くすには、相手の立場に立ってイメージすること。これにより、自分がそれまでわからなかったことに、気づくことができるようになる。

我々は物事の過程を知っていれば、批判や否定をする心はおさまる。対して、物事の過程を知らず、結果を突きつけられると、批判や否定の心が湧いてくる。過程を知らないから。

今の現代はどうだろうか。結果ばかり求められるような社会ではないだろうか。否定や批判があふれてやしないだろうか。過程は大事にされているだろうか。


できない人のネガティブ症候群よりもできる人のうぬぼれ症候群の方が厄介

できない人のネガティブ症候群よりもできる人のうぬぼれ症候群の方が厄介

 
できない人が、ネガティブ気味な傾向があるとか、言い訳しちゃうとか、その辺の傾向はもうみんなだいたい感じ取ってきている昨今、ポジティブシンキングをはじめとしたできる人になるためのメソッドが本だったりインターネットのあちらこちらで紹介されております。
 
さてさて、ここで表題にもありますように、めでたくポジティブになってきて、いわゆるできる人ってのが量産されるようになってきたのですが、ここでまた困ったことが発生している。今回はできる人特有の傾向、うぬぼれってやつの理解を深めていきたい。
 
たぶんこれはみんな感じている。いわゆるできる人やいわゆる成功してるっぽい人には、プライドや傲慢さ、自惚れの匂いがぷんぷんすることを。
 
ここで、真にできる人については除外していこう。
 
真にできる人は、自らが自惚れることを克服し、積極的で向上心がありながら、素直で謙虚さ、純粋さを兼ね備えた、全く臭みの無い人だ。
 
ここへ至るには、自惚れを克服することが必要だ。
 
ということで、自惚れを理解することにしよう。
 
早速ですが、人が上達したり、できるようになると、自惚れることはまず避けられない。
 
なぜなら、人ができるって感じるとき、そこに比較と批判の概念があるから。過去の自分や周囲と比べて、できるようになったなと、こう感じる時、心は緩む。
 
自分はできるって意識の中には、自分は頑張っている、自分はすごいって意識だけじゃない。こいつは、ダメ。あいつは、頑張ってない。っていう、他者を見下す価値観も含まれているんだ。
 
これは、別に自分ができないと感じる人でも感じちゃうことなんだけど、自分ができるって感じている人ほど、強く感じてしまうことなんだ。
 
真面目な人からすると、不真面目な人が目に付くし、頑張っている人からすると、頑張っていない人が目に付いてしまう。
 
そして、他者を批判する心とその他者を見て、自分はいけていると正当化する心が生まれてくる。
 
他者を批判していくことで、心は傲慢になり、自分を正当化して、自惚れていくわけだ。
 
普通に生きて、普通に努力していても、この自惚れるスパイラルに陥ることを避けるのは難しい。
 
自惚れればもっと他者を見下す心が強くなり、心が狭くなっていく。
 
 
もちろん、この自惚れにはレベルがある。もう、全面的に自慢が出てくる人と、そんなに自慢しないんだけど人を見下しているのがなんとなくわかる人がいる。
 
 
自惚れて何か悪いことがあるのか
 
自惚れる人の立場が弱者なのか強者なのかで状況は変わる。できる人は権力を有している可能性が高い。
 
弱者が自惚れた場合、そこには害は少ない。ただ、周りの人間が離れていくだけだ。
 
強者の場合、これは厄介な問題に結びつく場合がある。
 
自惚れると、傲慢さと組み合わさり、自分の価値観に合わぬものを排斥しようとする可能性がある。
 
権力と傲慢さは組み合わさるとタチが悪いが、だいたいいつもセットで他者を苦しめるようになる。
 
これは不思議だ。今、傲慢に見えるような人ももともとはそうではなかったろうに。。。
 
 
自分が成功するに従い、うぬぼれの種が育ち、傲慢さの花が咲く。
 
これを気をつけねばならない。雑草を刈り取るがごとく、己の未熟な心を根絶やしにしていかねばならぬ。
 
僕がこうやって文章を書いていても、その思考の裏側には、うぬぼれの心がやってくる。
 
ああ。自分、人間の思考に関していろんなことに気づけるなぁ。こういうことに気づけない人間は沢山いるんだろうなぁ。ってね。
 
この意識があることに気づき、それを消していきたい。
 
傲慢さはいったいどこからやってくるのか。うぬぼれはどうして出てくるのか。
 
これの背後には、人間の感情、特に、自分を特別視したいという欲求があるのだろう。
 
心理学の本にはこの辺のことは研究されているだろう。しかし、実際にどうやって消していくか。
 
自分が純粋に成長しながらも、全く嫌味の無いような、人間。
 
まさに宮沢賢治雨ニモ負ケズで出てくるような、素朴な生き方が僕の一つの理想だ。
 
まずは、自惚れや傲慢さってのが知らず知らずの間に勝手に育ってきてしまうってことを理解しよう。

ミスを恐れるのではなく、ミスを用心すること。

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ミスを恐れるのではなく、ミスを用心すること。

 

僕たち、ライフは1機しかないけどさ、ライフはそんな簡単に無くならないじゃない。そんなにミスすることを恐れなくったっていいんだ。大切なのは、ミスを恐れないことと、ミスしてもまた立ち直ること、あとは重大なミスを引き起こさないように用心するってことだ。

 

まずは、ミスをなんでやたらと恐れてしまうのか、理解してみよう。

 

ミスを恐れる気持ちってのは、成功への執着から生まれてくる。

 

人生の理想形ばかり追い求めていると、上を目指すことばかりに意識が集中してしまう。

 

上へ登れば登るほど、落ちることが怖くなる。失敗を恐れる気持ちが高まってくる。

 

意識が高いって人ほど、成長意欲が高いって人ほど、それが崩れることを恐れるようになるだろうなぁ。仮に、崩れてもなお、成長し続けようとする意欲が燃え盛る人は本物だ。

 

そして、上ばかり見てしまう心に加えて、何故だか人は、自分に都合の良いように人生を捉えがちになっちゃうんだなぁ。

 

これは、用心する心を失ってしまい結果的に重大なミスにつながる可能性がある。

 

結婚する時も、離婚の可能性があることとか、夫婦の仲が上手くいかない可能性があるとか、その辺のことはあんまり考えてないですよ。

 

よしんば、ちょっとは、結婚に関する将来の不安を考えることはあっても、関係が悪くなってきたとしたら、お互いどう乗り越えていくかってとこまで考えている人は少ないだろう。

 

結婚に至るまでの問題点の解消には、二人で全力を出すんだけど、一旦、結婚という関係が出来上がった後は、それが崩れていくと、立て直すのになかなか全力を出していけなくなる・・・。

 

自分の足元をしっかりと確認せずに、上ばかり見て、自分の都合の良いように人生を考えてしまうから、足元をすくわれるようになる。

 

ただ、逆に、何もかもを心配しすぎると、何も恐れてできなくなってしまうってことも起こりうる。


用心と心配は近いようで異なるが、はっきりと意識して区別することは難しい。


用心しているつもりが、ただ心配しているだけになる可能性もあるので、要注意だ。


他人のことは、心配になりやすいことに注意しておきたい。 

 

まとめますと、

  • 人生大したミスはそうそう無いから、あんまりミスにびくびくしないこと
  • ミスを恐れるあまりに新たなミスを生み出すことがあるので、ミスは気にしない
  • ミスに対して恐れることはせず、用心する