ねこ哲の思考メモ

気づきや日常をメモしていく。後に思考を整理するために。

人を理解しきったって言えるまでには300個ぐらい悟ればいいのかな?

人を理解しきったって言えるまでには300個ぐらい悟ればいいのかな?

 

ある人を理解したって言えるまで、その人に対する気づきは何個ぐらい必要なんだろうか。

 

100ぐらいはいるか。200ぐらいはいるかもしれない。その人の性格から、交友関係、歴史から何まで。200じゃ足りないかもな。

 

そうなんだよ。全然足りないんだ。足りないのにさ、自分達は分かった風に人を判断してしまっているわけ。理解不足なのに、人の言動に対して、あーだのこーだの言っちゃうわけ。そういう時に、どうしてその人がこういう言動したのかとか、どういう意図でそういう言動したとか、理解していないのに、偉そうに発言しちゃうわけ。

 

この人は、こういう人なんだね。とかね。

 

わからないんだよ。他人ってやつは。自分のこともそうだけど。でも、わかった気になっちまうんだ。我々。

 

わかった気になってしまうのが、本当に罠。そこで、理解しようって姿勢を失っちゃうもんね。

 

だから、物事を理解したいと思ったらさ、判断を出さないってことなんだ。ここで、わからないとも判断を出さないってことだ。

 

わからないってのも、1つの判断だからね。たいていの場合がわからないで終了か、わかったふりして終了かのどちらかなんだ。

 

理想で言ったら、人に対して、判断を下さないのがいい。良いとか悪いとか決めようとしない。ただ、人がいる。そして、その人がこういうことをした。せいぜい、ただの事実を挙げるぐらい。そこに良いも悪いもない。

 

良いとか悪いとか、そう簡単に決められないんですよ。

 

宗教の教典とかあったら別だよ。それを元にある程度、行動の善悪を判断できるからね。

 

ただ、薄っぺらい理解じゃあダメだ。こうしたら良いと聖書に書いてあるから。じゃあ、全然ダメ。

 

なんでこうしたら良いと聖書に書いてあるのかと、吟味していく必要がある。

 

と、宗教の話はおいておいて、無闇矢鱈に他人を判断しようとしないことなんだ。

 

それが人生の秘訣さ。

 

人に判断をつけると、それが自分に跳ね返ってくる。周りがこうしていると、感じてしまうと、自分もそうしなければならないと感じてしまう。

 

知らず識らずの間に、外から価値観がどっさりと入ってきてさ、それに縛られるようになっちゃうんだよね。それも、もともとは自分が何かに対して判断を下したから。

 

 

理解をしたと言い切れるまでは、理解したふりをしなくてもいい。

 

たぶんあれだ。日本って、わからないっていうことを恥としている。だから、わかっているふりをするようになる。

 

わからないことを恐れるがあまりに、答えに固執するんだね。なるほど。