ねこ哲の思考メモ

気づきや日常をメモしていく。後に思考を整理するために。

創造的な研究の仕方 自分で発見する姿勢で学ぶこと

創造的な研究の仕方は、自分で発見する姿勢で学ぶことが重要である。

 

今、材料科学の分野について研究を行なっている。ここで、新しい材料を発見する姿勢で学んだり、理論を構築する姿勢で学ぶことが重要である。

 

本や情報があると、それらに頼ってしまい、自分で考えて発見する姿勢を失っていく。本や情報を参照することは、とても重要であるが、この自分で発見するバランスと、外部の情報を活用するバランスを意識することが大切だ。

 

今までの自分は、本や情報に関して、それらに頼るのがメインで、良く吟味することは無かった。自分で理論や知識を構築する姿勢で学んでいこう。創造的な姿勢で学ぶことで、これまで見えてこなかった部分が見えてくる。

 

創造的な姿勢が無いと、勉強している時に、何を勉強すれば良いのか、なかなか要領を得ない。ある程度勉強してみても、漠然と自分に何が足りないのか感覚することができず、何時まで経っても自分は勉強ができないかのように感じてしまうのである。

 

自分で発見し、理論や知識を構築していくこと。既に知らないところは、想像する。想像して、創造することである。

芸術的に生きること

芸術的に生きること

 

ただひたすらに心を空にして、目の前のことを真剣に取り組み、そして、それを伸ばしていく生き方。

 

ただひたすらに心を空にしよう。余計な考えを持つ必要はない。

 

次のような考えは不要だ。

 

自分はあれがしたいだの

これがしたいだの

これをしていて大丈夫かどうかだの

あいつはこれがだめだだの

親が自分についてどうこう言うだの

世間体がどうだの

人生の夢をかなえるとかどうだの

日本はこうすべきだだの

 

 

これらの考えが積もれば積もるほど、心の中に迷いが生まれてくる。そして、迷いが生まれてくると、努力の足が止まる。

 

目の前のことに純粋な心で向き合うことができない。心を純粋にして向き合っていこう。全てを受け入れて、そして、創造していく気持ちで。そして、今の瞬間にやれることをただやっていくだけなのである。

 

今、やれることは、今、生きていることに心より感謝して、人間として生きることを喜びに感じて、瞬間瞬間の人生を楽しもう。それが、今できることだ。

 

心を純粋にしていくには、とにかく捨てていくことだ。汚れは、取り除くことに酔って、綺麗にすることができるのである。

 

この先に、創造性があり、芸術的な人生につながっていく。人生どういきたら良いか、という問に対しては、芸術的に、ありのままに、創造性を発揮して生きていくことが、人間として人間らしい生き方であると、ここに断言する。

過去の習慣から逃れるには

過去の習慣から逃れるには、相当入念な心の統御が必要である。

 

ここで言う過去の習慣は、過去から続く習慣というよりも、過去にやっていた習慣に関する気づきを述べる。

 

過去にやっていたゲームとか、昔流行った歌とか、昔流行った動画とか、昔の様々なこと。昔、自分が体感し、経験し、習慣化されていた行為。人は、昔好きだったものに弱い。今、昔自分がやっていたことが出てくると、それに心を囚われる。

 

どうしてだろうか。

 

今もテニスの動画を探してみたり、ゲームの動画を探してみたり、パチスロの動画を探してみたりする自分がいるわけだ。

 

人は思いつきがあると、それに囚われる。そして、自分が知っていると感じていることに対して心が囚われる。

 

この外的な刺激によって心が囚われてしまうことが、現代人が怠惰になる大きな位置要因であることをはっきりと自覚できている人は少ない。みんななんとなくぼんやりと、堕落した生活を送ってはいけないと考えている程度である。

 

それではどうすればこの過去の記憶から抜けられるか。ここも理解が大切だ。過去の自分の習慣、過去、自分が好きだったものそれらを理解すること。そして、今、見ている物を、なぜ自分が見ているのか、なぜ自分が見ようとしているのか理解すること。

 

心がものに囚われた状態を傾注という。その状態から抜け出すことができなければ、我々は堕落していく。

 

労働や時間の制約はこの状態から抜け出すことに貢献する。しかし、労働や時間の制約がない時に、心が緩んでいく。

 

ONとOFFという表現があるが、人はOFFの状態の時に、自然に努力し続ける術を知らない。

 

この時に、例えば語学とか資格とか、目標を定めて努力をすればいいと考える人もいるだろう。

 

それらもひとつの解決策になる可能性はあるが、あくまで短期的だ。継続的に努力し続けることは極めて難しい。

 

特に、やらなきゃいけないとわかっている時に、目標を立てている場合に堕落していく場合はタチが悪い。

 

怠惰になっている時は、気功を意識しよう。体内の気の流れ。どこかに発散してやいないか。呼吸を意識しよう。落ち着いて、深く、長く呼吸をするように心がけよう。

 

やばいと思ってはいけない。別に、緩む時があったっていい。そして、その時になぜ自分は緩んだのかと、良く客観的に観察してみると良い。

 

動画やインターネットのサイトで自分の気になるものがすぐに調べることができる今日、自分の行動のパターンをより強く自覚せねばなるまい。でなければ流されてしまう。

 

 

余計なことを考えない。無心で取り組むこと。

何も考えずに、無心で取り組むこと、これができれば何事も上達し、習得することができる。

 

あれがああとか、これがこうとか、どうしたいとか、何が大事だとか、それらをいちいち意識に入れることなく、何も考えずに、余計なことを考えずに無心で取り組むことである。

 

人は努力をする時に、期待や名目を抱いて努力に取り組もうとする。そして、それを疑わない。これをしたら、ああなるとか、誰のため、これのために自分は努力するとか。

 

そういった考えを持たずに、ただ無邪気に努力すること。ただ無邪気にやることをやること。その意識で行なっていくことで、自然とコツを習得していく。

 

そう。自然にだ。

 

力を抜いた状態が最も学習できる。力を抜いて、事物を良く観察することだ。

 

理解しようとか、身につけようとか思うことなく、リラックスして、ただひたすらに無我夢中に取り組むことである。

学習と創造性

与えられた問題を解くことは、それに用いる知識・公式・理論の理解に役立つ。学習の初学である段階では、問題を解くことを意識して勉強することが有効だろう。しかし、創造性を意識しない学習は、ある程度のレベルで詰まる。

 

決まった思考パターンに囚われるようになるからである。そして、その内に知識や理解を深めることが学習なのではなく、問題を解くことが学習であると、問題がすりかわっていく。

 

問題を作るような、生み出していくような、知識を自ら整理していくような学び方が大切だ。全ての分野に対してこれは当てはまるだろう。

 

全ての情報や知識は、他者が知識や情報をまとめたもの。それをただ参考にしているだけである。

 

そして、それをそのままにしておくことなく、自分の中で体系的に整理していくことが大切だ。この整理する途中において、創造的な活動になっていく。

 

問題の答えに固執するのではなく、自分の知識や理解を体系的に広げて整理していくこと。自分の直観に頼りながら、知識と知識を結びつけ、理解を深めていく。

 

他者から与えられることは、「ヒント」である。本を呼んだり、講演を聞いたりすることで、多くの「ヒント」が得られる。が、それを体得するにはトレーニングが不可欠である。

 

で、ここで学問におけるトレーニングとはなんだということだが、これは、自分の知識を整理して体系的にまとめ、そして、法則を見出していくことだと思う。

 

小説家が小説を書いて上達するように、漫画家が漫画を書いてその腕を上げていくように、学問・勉強においても、知識を整理して、体系化していく。

 

で、ここで重要なのは、調べるとか、現状の知識にあまり固執しないことだ。自由に発想する。

 

自由に考えて、自由に法則を見出してみる。

 

そして、自分の中で法則を構築していき、現状の法則と照らしあわせていくのである。

 

現状の法則を学んで、自分の中にインプットしようとするよりも、自分で法則を見出して、それを構築していくほうがはるかに面白い。そして、現状の法則を学んでみても、すぐに身につくのである。

 

ただ無邪気に創造していくように学問することができれば、それは本当に素晴らしいイノベーションを生み出していくだろう。

 

科学の世界は既存の情報に縛られ過ぎだ。これが、あるから、思考が制約され、興味を失っていく。現状のルールにのっとることは大切だが、これに縛られ過ぎてはいけない。自分がルールそのものも創れるのではないかと、トライしてみても面白い。

 

英語もそう。創造的な視点で英語をとらえて、つくってみる。そうすると、これまで見えてこなかった関係が見えてくるだろう。

 

まだまだ自我がいることに気づく

自分が何か作業をするときに、「あー、これは先生のせいで上手くいってないんだな。」とか、「周りのメンバーのモチベーションが低いのは◯◯のせいだ。」などと、呟いている自分がいることを発見した。

 

しかもずーっと昔から。何年もそれを繰り返しているから、それが当たり前のように感じてしまっていた。

 

分析めいたように考えて、批判的になる。そして例えば、「自分の基礎力が無いのは、自分の関わっている分野のせいだ。とか、周りの環境が起因しているかもしれない。」などと、平気で考えてしまっているようだ。

 

昔の自分は自我の意識が強烈だった。すぐに人と比較して、人を批判することを頭のなかで繰り返していた。

 

まだ、それらの意識が残っているらしい。見つける度に退治をしていこう。ネガティブな思考をしても仕方がない。

 

そして、別に周りがどうなろうとも、そこに対して意識を注がないことである。周りが悪く傾いていくと、そこに対して正義感が働いてしまう。そして、それで、自分の中に環境に対する批判が始まってしまうのである。

 

何も意識をしないこと。良くあろうとも、悪くあろうとも。自分が自然を眺めるのと同様に、何も関係なく、あるがままに受け入れることである。

 

まずは、自分が良くなっていくことなのである。自分が良くなっていくためには、周りから意識を切り離していかねばならない。

 

あらゆる物に対する執着を捨てることだ。自分も周りも。

 

そこから、心が研ぎ澄まされていく。

 

周りを意識しないで努力をただ続けることが、結果、周囲への貢献につながっていく。あるがままに、努力を続けていこう。

好きな人に対する意識は未完了の欲求から膨らむ

好きな人がいる。その人を忘れられない。そして思いがどんどん積もっていく。それは、好きな人に対する欲求が未完了だから。

 

この好きな人というのは、片想いの場合である。付き合った場合、相手に対する意識は変わっていく。付き合いはじめは、片想いの頃と同じような気持ちを維持するが、時が経つにつれてこの気持ちは変わっていく。

 

恋愛のパターンは2つに分けられる。

付き合ったけど別れた場合と付き合うことなく、何もなかった場合、あるいはフラれてしまった場合。

 

自分がフラれてしまうような形は、未練が残る。欲求が未完了のまま残る。

 

自分が過去にああしたい。こうしたいと考えたことは多くが未完了の欲求になっていく。あれもしたかった。これもしたかったと。

 

恋愛もそう。そして、その未完了の気持ちが強く残る。

 

この未完了の欲求を捨て去ることは自己向上には重要である。欲求が生じても、全てを満たすわけにもいかない。そして、この欲求を捨て去るためには、欲求そのものを理解していく必要がある。

 

どうして、自分がそのような欲求を持ったのか。どうしてその人を好きになったのか。

 

こう考えていくと、面白い。人が人を好きになる時、あまり理由が無い。男が女を好きになる時、かわいいから、とかやさしいからとかそういった理由が挙げられるかもしれないが、それを突き詰めようとすると理由がわからなくなる。

 

面白いのは、好きになる時、一人の人を好きになるようになるということである。

 

大抵の場合、この人。ってことでピンポイントに好きになる。ただ、この感覚は恋愛経験が豊富になってくると、変わってくるようである。

 

基本的には1人に注目していく。付き合う前から好きっていう場合もあるが、付き合ってから好きになっていく場合もある。

 

1人の人に対して、ずーっと考えるようになって、好きになっていくんだろうな。ちょっと相手と近づいたこととか、相手の仕草で印象に残ったこととか考え続けるんだろうな。

 

それでどんどん想いが膨らんでいく。

 

で、恋に敗れた場合は、あるいは何もしないで終わってしまった場合は、付き合う状態を知らぬまま、未完了の欲求が生まれるわけだ。

 

人間は未知であることに対して感情が膨らむ。付き合う状態を知らぬままに恋愛が終わると、そこに未完了の欲求があり、未知なる状態が残る。

 

相手を好きになるとき、相手について未知なることが多いから、だから感情が増幅されるんだろうな。そして、様々な期待を膨らます。

 

人は、未知であり、好意を抱くものに対して希望や期待を膨らませていく。週刊誌の次週予告なんかもそうだ。続きが気になっていく。

 

この続きに対する期待が膨らんだ状態で、その続きが無いと、もやもやした未完了の感情が心の中にとどまっていく。

 

この未完了の感情をどう取り扱っていくか。まずは、期待を持たぬことである。期待すると、期待が膨らみ、感情がうわついてくる。

 

期待が無ければ失望も無い。

 

だが、ここで、期待を持たないと努力が生まれないという声も挙がるかもしれない。人は期待して、努力することに慣れすぎている。

 

期待もせず、ただ、ひたすらに努力する生き方を多くの人は知らない。それは、芸術的な創造的な生き方である。欲求の束縛から開放された生き方。

 

努力を強いる生き方も欲求に縛られた価値観。努力しようとかしないとか考えることなく、頑張る。ただあるがままに。

 

それが、期待を持たずに努力する生き方。そうすれば、未完了の感情が生み出されることはない。未完了の欲求がたまると、雑念となり蓄積していく。それをまずつくらない。

 

期待というのは、そこに依存の心も含まれる。自分ではない誰かが、何かをしてくれる。依存の心にはそのような期待が含まれている。

 

まずは理解をしていこうか。

何してもダメな人ちょっとそこ座れ

f:id:nekotetsustyle:20130521182628j:plain

何してもダメな人

 

ちょっとそこ座れ。

 

君がそれなりに何かできるような人であれば、下の出口からすぐに立ち去った方がいい。此処から先は、何してもダメな人専用だ。

 

 

出口

 

 

 

よし。何してもダメな人間が集まったわけだ。早速始めようか。

 

君は、何をしてもダメな人。そうなんだね。

 

君、何をしてもダメって思っているけど、何ができて何ができないかって真剣に考えたことあるかい?

 

まず、自分が何ができて何ができないか考えてみること。これが大切だ。

 

これを考えてみれば、自分がなぜ何をしてもダメって感じるのか、その原因がおぼろげながらも感じとれるはずだ。

 

こう、自分がダメだと感じる時ってのは、仕事とか勉強とかスポーツとか、周りと競争の要素が入ってくることに対して、しょっちゅう、自分はダメなんだなぁって感じないかい?

 

自分の好きなことをやっている時ってのは、別に自分がダメとかあれができないとかこれができないってことは考えないもんだ。

 

競争に勝っていくには、努力が必要となる。

 

何やっても自分はダメだぁ。って感じる人は、努力ができない。いや、努力の仕方を知らないんだ。

 

努力できれば、何かができようになる。努力ができなければ、何もできるようにならないんだ。

 

これは君も充分わかっているだろう。いや、わかっているつもりになっているだろう。

 

努力の大切さを全く知らない人は、ほとんど皆無なはず。努力は大事じゃない。って言う人はまずいない。しかし、なんとなく、君は努力不足であると感じている。

 

何やってもダメな人は、まず、努力はしようとする。

 

でもね、その努力の仕方に関して理解が浅いから、努力は長続きしないし、その努力の程度も浅いんだ。

 

f:id:nekotetsustyle:20130521193807j:plain

 

じゃあ、その努力って何なのだろうか?

 

野球で例えると、甲子園に行くつもりで努力する高校球児と地区予選2回戦突破を目指して努力する高校球児の努力って言えば全然違うのはわかるかな?

 

何やってもダメな人の場合、この努力の程度が、地区予選2回戦突破どころか、1回戦も突破できないような努力量しかできていないんだ。

 

そして、その少しの努力量で成果を期待してしまうわけだ。

 

でも、本人は、あんまり自分の努力が足りないって気づけていない。

 

負けて負けて、負けたって、何で負けたのかあんまり気づけないし、考えようとしない。

 

負けた時に、あれがダメでできなかった。これがダメでできなかったと、すぐに周りのせい、何かのせいにしないかい?

 

失敗した時に、何が足りなかったのか、自分自身をしっかり見つめることできるかな?

何してもダメな人はさ、ここが甘いんだよね。とにかく、自分に甘い。

 

失敗した時にまず自分を省みることができないんだな。

 

だから、どのくらい努力をすればいいのかわからない。

 

本当に自分の今の環境を打破していくためには、どれくらいの努力をどれぐらいしていけばいいかっていう感覚が全然ないんだ。

 

まずは、己を見つめるようにするんだよ。

 

f:id:nekotetsustyle:20130521194018j:plain

特に、何か上手く行かなかったとき、努力が実らなかったとき、自分自身をしっかり見つめることだ。

 

まわりのせいにすることなく、言い訳をすることなく、自分自身の足りないところに気づくようにするんだ。

 

まだこれを見て、いや自分はこれはわかっている。だけど、自分は本当に努力しても何やってもダメなんだ。そういう人が中にはいるかもしれない。

 

それは、自分が自分でそう勝手に思い込んでいるだけだ。それは自分に甘い人が出す言葉なんだ。

 

ここも含めて、自分の足りないところに謙虚に向き合えるようになれば、君は、自分自身が変わるためのヒントに気づくことができるだろう。

 

すぐに見つけられるはずさ。

 

泥で濁っている湖の底に眠る宝は、すぐに見つけられないが、泥が落ち着き、澄んだ湖の底にある宝はすぐに見つかる。

f:id:nekotetsustyle:20130521195104j:plain

謙虚な心で、自分を見つめてみることだ。そうすれば、できることが1つ2つと増えていく。

 

自分が何してもダメな人だって思うことが、そもそも自分に対して言い訳しているってことに、気づけるはずさ

 

少しずつ変わっていこう。

 

 

 

こちらで、正直の大切を学ぶことも大変よろしい。

bkowasu.com

 

自分に正直に生きること。それもまた、重要なことだ。

 

他人をブサイクと呼ぶ人ちょっとそこ座れ

 

f:id:nekotetsustyle:20130520201931j:plain

 

他人をブサイクと呼ぶヤツちょっとそこ座れ

 

 

君が他人をブサイクだと呼んだり、こいつブサイクだなぁ、とすぐに思ってしまうような人は、ちょっとそこに座りなさい。

 

もし君が、他人をブサイクだと思っちゃいけないと、綺麗な心の持ち主だったら、すぐに立ち去った方がいい。

 

 

<出口>

 

 

 

よし。ここに残ったのは、他人をブサイクと呼ぶ人間ばかりのようだな。

 

君は、他人をブサイクだと考えるのだろうが、いったい誰にそれを教わったんだい?

 

みんなそう言っている。醜いものを醜いと言って何が悪い。

 

君はそう言うだろう。

 

じゃあ、君はどういうものが醜いのか、どういう顔がブサイクなのかわかるかな?

 

キモい、ダサい、醜い、ブサイク、これまで君は様々な言葉を用いて他人を形容してきたんだ。

 

君のブサイクという表現をどれくらい日常的に用いているか。それが問題だ。

 

次にブサイクだと感じる人に対する対応のパターンを挙げる。

 

  • ひどいレベル    →「うわー。ブサイク。」
  • ちょっとひどいレベル→「ああ・・・。美しくはないかな・・・。」
  • ある意味ひどいレベル→「◯◯さん、カワイイー。」
  • 普通のレベル    → 心の中で「うっ。うん、何も言わないでおこう。」
  • 神         → 心の中で「この人はもっと魅力がある。それを引き出そう。」

 

さて、君は上のどのパターンに当てはまるのかな?

 

大抵が、うっ。と心の中で思っても、口には出さないでいるだろう。

 

 

f:id:nekotetsustyle:20130520211747j:plain

何か言いたそうな顔をしているのはバレバレなんだ。

 

 

しかし、君の頭の中では、「あーこの人ブサイクやわー。」と呟いてしまっている。

 

それを、コントロールできたら、君は人として一皮や二皮どころじゃない。十皮はむけるだろう。

 

もし、君が「あっ。ブサイク。」って口に出せてしまうような人だったら、相当気をつけるべきだ。

 

君は、さすがに人にブサイクって言う時には、冗談で伝えているんだろうけど、これは相手を相当慎重に選んだほうがいい。直接ブサイクって言えるのは、そんなにブサイクじゃない人、つまり普通かそれ以上の人にしか使えない。

 

また、友達の彼女や彼氏のことをブサイクって言ってしまってはならない。特に、男同士では、すぐに相手が美人かどうかとか話題を出すが、それもNGだ。

 

中には、自分の彼女があんまり可愛くないって感じている人もいるからね。

 

美人の話をすると、それと同時にブサイクの意識も生まれてしまう。

 

ここに気をつけることだ。

 

これの逆を言えば、世の中ブサイクがいるから美人がいると捉えることもできるが、実際生活において、ブサイクは美人のことを意識するが、本当の美人はブサイクを相手にしないものである。

 

本当に美しいものは周りがどうあろうと美しい。

 

逆に、ブサイクというのは、これは他に比べるものがあって、相対的に生まれてくるんだ。

 

どこをどう見てもブサイクな人ってのは、世の中そういるもんじゃあない。

 

文化や人の価値観によって大きく変わってくるものなんだ。

 

君がブサイクだと感じている人だって、他の人が見たらちょっと可愛いって思うかもしれない。

 

もし君が、ブサイクに感じる自分の感情に対して、認識を改めることができたら、君は素晴らしい人格の持ち主だ。

 

最初は、ちょっと「ウッ。」って感じるかもしれないが、ちょっと見方を変えてみなさいよ。

 

見る角度を変えてみたっていい。前から見たら微妙だけど、横から見るといいなぁ。とか。

 

後ろ姿がいいなぁ。とか。

 

とにかく、前向きに眺めてみるようにすることだ。

 

君が好きになる人が可愛い人、美人である人、イケメンである人であったとしても、別に他の人をブサイクだと感じる必要はないんだよ。

 

そしてね、当たり前だけど、人の容姿ってものは、年が経つにつれて変わりゆくものなんだ。

 

f:id:nekotetsustyle:20130520213748j:plain

 

男だったらおっさんぽくなっていくだろう。頭もハゲるかもしれない。

 

女だったら、肌が老いてきてシワが目立つようになってくるだろう。

 

そりゃあ、誰だって、若い時に比べるとどんどん醜くなっていってしまうものさ。

 

でも、心まで醜くするこたぁないだろう。

 

例えば、今、ハゲを馬鹿にしている人は、将来的に自分がハゲかかってきたときに、昔の自分の記憶が蘇ってくるものだ。ああ・・・、自分はハゲたくない。ハゲは嫌だってね。

 

 

他人をブサイクだって感じている、考えちゃっている自分の心を観察してみたことはあるかい?

 

他人を醜いと感じちゃっている人ほど、醜い行為は無いねぇ。

 

そう思わないかい?

 

だから、逆に、これをやめていけば、どんどん心が綺麗な方向へ向かっていく。

 

さぁ、これがわかったら、他人をブサイクと呼ばず、考えることもせず、むしろ、魅力的な方面を探しだしていこうじゃないか。

 

ブサイクだと感じる人から魅力を見いだせる人は、自分の中でも、魅力を見出すことができるからね。

 

よし、わかったら、行ってよし。

 

 

自分をブサイクだと思う人ちょっとそこ座れ

f:id:nekotetsustyle:20130520181954j:plain

 

 

自分をブサイクだと思う人ちょっとそこ座れ

 

ブサイクじゃない人はすぐに立ち去った方がいい。こっから下を見ても大したことは書かれていない。ただただブサイクな人に向ける説教があるだけだ。

 

 

 

 

 

 

よし。残ったのはブサイクだけのようだね。じゃあ、早速始めようか。

 

 

君、ブサイクなんだよね?誰が君のことブサイクだって言っているんだい?

 

君が、君のことブサイクだって言っているの?

 

君が、君のことブサイクだって思っているの?

 

他に誰かが君のことブサイクだって言ったのかい?

 

友達とか親とか、彼女とか彼氏とか、君に向かってダサいとか、ブサイクだとか、カッコ悪いとかセンスが無いとか、そういうこと言っているのかい?

 

これまで、何回かは他の人に「君ってブサイクねー」って言われたこと、あるかもしれない。

 

でもさ、一番君のことブサイクだって言う人って誰か知ってるかい?

 

それは君自身なんだ。

 

 

 f:id:nekotetsustyle:20130520184059j:plain

君がことある度に、例えば、鏡を見てからとか写真を見てとか、ガラス越しに自分が見えた時とか、「あー、自分ってなんでいけてないんだろう。」

 

そう、思ってやぁいませんか。

 

やれ、自分の顔の形が親に似ているだの、なんかもっと厚い唇が良かっただの、もっとまつげが長かったらいいだの、鼻が低いだの、一重は嫌だだの、顔のバランスが悪いだだの、もーあれこれ注文つけちゃうんだなぁ。

 

どーも、悪いところばっかに目が言ってしまうんだねぇ。

 

自分の顔がブサイクだって思っちゃている人は、心の中までブサイクなんだ。

 

だって、自分をブサイクなものって認めちゃっているもの。

 

自分をブサイクなようにしか自分を見れていない。そうじゃないかい?

 

f:id:nekotetsustyle:20130521170454j:plain

 

ブサイクな人はここがわかっていない。自分をブサイクな方面しか見れていない。悪いところばっかりに意識を集めちゃうんだ。

 

そしてさ、そう、ブサイクな人に限ってさ、他の人をブサイクだって感じちゃうんだよね。

 

この人よりは私の方が可愛いとか。こいつよりは俺の方がいけているとか。

 

いつまでも下の方ばかりみて、自分の気持ちを誤魔化している。

 

こういうのってね、スポーツでも勉強でも仕事でもなんでも一緒なんだなぁ。

 

できない人に限ってさ、自分よりできない人を探しちゃうわけ。

 

あー俺はこいつよりはマシだわーってね。

 

そういう人は何事もちっとも上達しないんだ。そういう人はちっとも上達しないから、結局、自分より下だと思っていた人に気づいたら負けちゃっていることだってある。

 

しかもさ、もっとタチが悪い人って、自分より明らかに勉強や、仕事、容姿や性格が良い人に対しても、ケチつけ始めちゃうんだよね。

 

いつも周りと自分を比べちゃっている。

 

こうなってくると、周りの悪い点ばっかりに目がいっちゃうし、当然、あなたもあなた自身の悪いところに意識が集まっちゃうでしょう。

f:id:nekotetsustyle:20130520190720j:plain

ブサイクな人は他人の粗探しが得意技である。

 

 

それでもね、人の悪いところばかりを見ちゃっているような人ってさ、それが自分の方にも跳ね返ってくるように、人間ってやつはできているみたいですよ。

 

人の悪いとこばかりを見るような人は、自分の悪いところが目についちゃうんだ。

 

 

さて、ここまで沢山話してきたけれど、まず理解しておきたいところは次の2点なんだ。

 

  • ブサイクな人は自分で自分をブサイクだと認めちゃっている
  • ブサイクな人は他人を悪く見る習性がある。この習性で自分も悪く見えちゃっている。

 

んじゃあ、ここからどうやって変わっていけばいいかなんだけど、本当に自分の根っこから変えていくのには時間がかかることをまず理解してほしい。

 

ここでは、短期的にとっても効果があるシンプルな方法をお伝えする。

 

これやるだけで、ブサイクだった女の子が、可愛らしくなって、ブサイクだった男の子が凛々しくなる方法。

 

いいかい。

 

君は、ニッコリと笑えるはずだ。

 

ニッコリ微笑むんだ。

 

f:id:nekotetsustyle:20130520191747j:plain

 

そうすると、美しいし、かっこいいんだよ。

 

とってもとっても見栄えが良くなるんだ。

 

え?そんなこと知っているって?

 

そんなはずはない。本当に笑顔が素敵な人は、自分のことブサイクだなんて思わないんだ。

 

ここで、なーんだ知っているよって言っちゃうような人って、やっぱり心がブサイクなんだなぁー。 

 

ここで、「ははぁー、そうかー。笑顔ってやっぱり改めて、大事。自分はなんとなく、表情が悪くなってた。容姿はそんなすぐには変わらないけど、笑顔になって、心を明るくしよう。」こう思える人は立派だよ。

 

極々稀に、笑顔が気持ち悪いって言われて気にしているって人もあるかもしれないが、だったら、もっと良い笑顔を作ったらどうだ?

 

ニッコリ笑っている間は、嫌なこと考えないだろう?

 

1秒だけじゃない。10秒いや、30秒、もっと笑顔を作ってみなさい。

 

心が晴れやかになってくるだろう?

そしてね、ここで、大切なことは、笑顔を作るってのと同時に、自分のことをブサイクだなんて思わないことだ。

 

 

心の中では、自分の容姿を肯定するんだよ。美しい、かわいい、かっこいいって思うんだ。

 

君はもっともっと美しくなるし、かっこ良くもなる。

 

そう信じて、鏡の前でニッコリ笑う、そういう美しい習性をつけなさい。自分がはっと気づいたら、すぐに笑顔になるんだよ。

 

 

自分に正直に生きることも大切だ。

「正直」である強さを、こちらでも学ぶと良い。

 

bkowasu.com