疑い深い人ができるまで 【コメントからの気づき】
疑い深い人ができるまで コメントからの気づき
前回の人は何故だかスピリチュアルな視点を疑うようにできている。にて、いただいたコメントからの気づき。
前回の投稿では、人は自分がわからないものを疑う習性があると書いたが、中には、自分がわからないと感じていようと疑わない場合もあるし、疑わない人もいることに、コメントをいただいて気づいた。
人は、生まれた時は全てを信じる心がある。全てを受け入れることができる。それが、時が経つにつれ、人に騙されたり、人が騙されているのを見たりして、疑いの気持ちが出るようになってくる。
ホント・・・? 怪しくない・・・?
幼稚園児がこれらの言葉を言っていることを聞いたことがあるだろうか・・・?本当に?という表現はあっても、それは、期待を込めた本当に?という表現になる。他には、あんまり、「わからない」という言葉も使わないんだ。
それが、中学生・高校生になってくると、疑う心やわからないっていう表現が出てくるようになる。
多くの人が成長する過程で、周りを否定したり、疑う心が育っていってしまうんだ。
この点で言えば、皮肉なことに、心というものは、成長すると共に衰えていってしまうと考えられる。
ピュアな心がどんどん汚れていく。そして、物や人を疑う習性がついていってしまうんだ・・・。
もちろん、これには人によって程度の差もあるし、場合によっても変わってくるだろう。実際、常に全てを疑っているような人はあんまりいなくて、ふだんは何でも信じる人でも、特定のことになったら、急に用心深くなるということもある。
ここの疑いが生じる場合分けってのが面白いんですよ。
まず、疑いとか疑問ってのは、自分が知らない・わからないと感じた時に発生する。さあ、それでここだ。
- 自分が本当に全く知らないことは信じる。
- 自分がちょっと先入観とか知識があると疑う可能性がものすごい高い。
- 自分が良く知っていることに関しては、あまり疑いも出てこず、信じもしない。(この場合はわからないと感じない)
人は中途半端に知っている物に対しては、疑いを持つ可能性が高くなる。人から噂を聞いていたりとか、どっかでちらっと情報を仕入れているようなことは、警戒心が格段に高くなる。
逆に、何も知らなかったら、疑わない。
これは、お化けと子供の対応からイメージできるだろう。
お化けの存在を知らない子供は、お化けを恐れない。
お化けがいるよって聞かされた子供は、お化けを恐れる。
お化けはいないでしょうと、わかってる大人はお化けを恐れない。
これまでの話をまとめてみると
人は経験を積むにつれ、人や物を疑いやすくなる。まず、疑ってかかれってことも当然のように、言われているしね。で、疑いが発生するような場合ってのは、中途半端に知識があるような状態だ。
科学やってる人からすると、疑うことから、発見がある。と言う人もいるかもしれない。
ここで、さらに考える必要があるのは、批判的に疑うってことと、前向きに疑問を投げかけること、2つの場合があるんだ。
これね、日本語では区別が無いんだな。一応、疑問と疑惑という風に分けることができるんだけど、
深く突っ込んでいくと、この日本人の用いている言葉には、肯定的なニュアンスと否定的なニュアンスがごっちゃになって日常に用いられている言葉が沢山ある。
疑うっていう表現はその一つだ。英語だったらさ、否定的な場合で suspcious とか doubt と 肯定的な場合で question とか で使い分けができるでしょう。
ちなみに、僕の書いている文章は、論理的に考える人から見れば、疑いがポンポン湧いてくるだろう(笑) 僕の主張ってほとんどソースもデータも無いものね。直観ですよ。直観。
感じたものを感じたように書いている。