ねこ哲の思考メモ

気づきや日常をメモしていく。後に思考を整理するために。

人は何故だかスピリチュアルな視点を疑うようにできている。

人は何故だかスピリチュアルな視点を疑うようにできている。


これは、スピリチュアルに限った話でも無いんだが、人は自分がわからないと感じるものに対して、反射的に物を疑ってしまう習性がある。

この習性があるがゆえに、神とか、オーラとか、潜在意識とか、引き寄せとか、一見、我々の5感では知覚できないような話を外から受け取ると、反射的に拒否反応を示してしまうのである。

まず、はじめは自分が知らないことに対する拒否反応が誰でも起こる。


この、拒否反応の出る強さってのは、心の純粋さによって変わってくる。何事も疑う習性が染み付いていると、拒否反応が強く、何事も素直に受け入れる習性があると、拒否反応は出づらい。

ここで話を脱線してみよう。

世の中物を疑う人だらけだ。信じる者はバカを見るとか、物事は疑ってかかるのが当然だとか、人は騙す生き物だとか、信じる方が悪いとか、疑う方が当然だ的な流れをなんとなく感じるわけだ。

で、疑いの強い人ってなんとなく、はたからみてて、何か信じるものがあるように見えませんか?

俺は自分を信じるとか、科学を信じるとか、なんか強固な信じるもの、でもそれは宗教とか哲学とかスピリチュアルとは違う方面の何か。

物を疑う人って、何かを信じているように見えるんだなぁ。

疑うことの逆は信じるものってみんな考えるだろう。ここで、面白いことには、疑いが強い人ほど何かを信じているように見えるのさ。

たぶん、疑いの強い人ってのは、自分の知っている世界、自分の常識、自分の価値観を無意識的に強烈に信じている人なんだろう。

となるとだよ、逆に考えてみると、一見何かを信じているように見えている人ってのは、実は強烈な疑いから生まれているんじゃないかなってことなんだ。

つまりは、
物を疑うこと=自分の感覚している世界のみを強烈に信じること

こう解釈もできるんだね。

物を疑ってかかる人は、結局知らずしらずのうちに、今の自分の価値観、自分の世界に固執しちゃうってこと、これは皆さんもなんとなく感じてきたことだと思う。


そして、疑いは否定や批判を生み出していくのさ。


もう、この場合は自分の価値観を信じるっていうよりも、固執してるって表現の方が正しいかな。


で、話をスピリチュアルの話と人の反射的な拒否反応に戻す。


疑う気持ちが強いと、そこに拒否反応が生まれる。

スピリチュアルな話は、ほとんどの人に対しては、実感がわかない話だ。

となると、スピリチュアルを受け入れられるのは、次のタイプになるだろう。
  • ピュアな心の持ち主
  • 何か生死をさまよったとか、光を感じたとか、ありえないような偶然が起こったとか、特別な体験をした人
  • 疑いながらも、拒絶をせず、理解をしようとする人
疑いの心を無くすか、体験によって自分の世界を広げるか、疑う心を疑うか。

ほとんどの人の場合は、まだまだ上の状況が整っていないんだろう。

今はやっぱり、信じることよりも疑う方が正解だ的な流れがあるから。


イスラム教開祖であるマホメット曰く
同じ迷うのであれば、信じずに疑って迷うよりも、信じて騙されて迷った方がいい。何故なら、信じて救われる可能性があるから。

これは、本当に信ずるものは、迷うことがないということを暗に意味している。

スピリチュアルな感覚を理解していくために、僕は僕の中にある疑いの心を消していきたい。

いただいたコメントより スピリチュアルな視点と哲学的な視点と科学的な視点

id:cawnnyさんから、前回の投稿でコメントをいただいた内容から、スピリチュアルな視点についてふと気になったことがある。

 

スピリチュアルな視点で世界はどう解釈できるのか・・・。科学的な視点とはどう違うのだろうか・・・。などなどである。

 

物事はスピリチュアルな視点、哲学的な視点、科学的な視点、各々の感情が感じた視点の4つの視点から解釈できる。

 
 
今回、スピリチュアルな視点、哲学的な視点、科学的な視点について絞って考えてみよう。
 
自分の感覚としては
 

スピリチュアルな視点は哲学的視点と近く、

哲学的な視点は科学的な視点に近い

 
こんな、イメージだ。一見意味がわからないね。どっちのケースも、近いといえば近いって感じだね。
 
で、続けていくと、スピリチュアルな視点といえば、人間のオーラや死後の世界とか神ってイメージを持っている。
 
感覚が先行する視点だ。
 

で、ここで考えてみたいのが、大本の大本ってなんでしょうってこと。

 
この世界の大本を考えていけば、スピリチュアルな視点と哲学的な視点、科学的な視点の理解がしやすくなる。
 
それで、大本といえば、やっぱり宇宙ですね。あとは生命の神秘。
 
 
宇宙があって人間がいて、生命があるってことで、神がいるってのは間違いない。
 
神ってのは創造主って解釈でもいいんだ。
 
誰かが、こう、宇宙ってのを設計して、生命が生まれるように決めたんだね。
 
そう、決めないとできないんだ。何事も。
 

だから、宇宙には、創造主が決めた、何らかのルールがある。

 
これを物質世界で人間が共通認識できるのが科学だ。
 
物質や研究対象があって、証拠が出せるもの。これが科学と。これも一つの宇宙のルール。
 
哲学は、証拠は出しようが無いんだが、いろいろと観察して、推測してみて、たぶん宇宙のルールってこうなっているんじゃね?ってのが哲学。
 
スピリチュアルな視点は、不思議な体験や感覚があって、たぶんこうなってる。この宇宙のルールはこれだ。って直接答えだせちゃうやつ。
 
 

これらの違い、サンタクロースを信じるか信じないかってことでたとえられるんじゃないかな。

 
サンタクロースがいるっ!信じるとプレゼントがもらえる!って信じれるのがスピリチュアル系。
 
サンタクロースは親だ。親にありがたく感謝し、もらっておこう。   科学系。
 
サンタクロースはいるかもしれないし、いないかもしれない。世界の家庭で、サンタクロースが確実に来ていないとは、言い切ることは難しい。ただ、昨日のプレゼントは親だ。 哲学系
 
 

と、例えをしてみるが、これが、サンタクロースを神って存在に変えるとどうかね?

 
 
神ってのは、この世界がある以上、どっかにいる可能性がある。
 
 
ここだ。この、物質世界では証拠が出せない領域。
 
ここで、あぁ。神はきっといる。人間って神秘だわ。そう、思えるかな?
 
ここでまた考えてみると、
 
神はいる。こうすれば会える。ほらこうやってチャネリングして。。。   スピリチュアル系
 
神がいるっていう証拠を求める。神に会った人がいるというのは幻想の可能性がある。   科学系
 
おそらく、様々な事象から神はいるのだろう。人間も、おそらく気のような思念体である。  直接会えるかはわからないが、神なるものの恩恵を得る方法があるはずた。   哲学系
 
 
と分類できそうだ。
 
 
なかなか神や根本的な物を考えるアプローチへの理解が深められてきた。結局、スピリチュアルな視点からでも哲学的な視点からでも同じようなところに行きつくのだが、そこに至るまでの道筋がちょっと違うんだな。
 
次回は、その思考の道筋が違うとどんな影響を及ぼすか考えていきたい。
 
 
 

人生をつまらないと感じる人は、人生の理解が浅い。ただ、それだけなんだ。

幸せに生きてるかい?

 

これに胸を張ってYES!と答えられる人はごく僅か。

 

生きてはいる、が、なんとなく心の底で、自分の生き方に、周りの社会にモヤモヤしたのを感じたまま生きている人だらけ。

 

僕は、人生を理解して、社会を理解して、科学を理解して、宇宙を理解して、そして、人生や宇宙の法則ってやつを見つけていきたいんだ。

 

それで、そのきっかけを見つけるために、ブログを書いている。こう、ブログを書いてみることで、自分の思考がどんどん整理されていって、自分が知らなかったことが、次々に湧いてくるようになるんだ。

 

じゃあ、人生を理解するとどうなっていくのか?

 

これは、スポーツとか、ゲームで例えると、わかりやすいんだ。

 

将棋を理解していない人が将棋を見たらつまらなく感じる。

 

サッカーを知らない人がサッカーを見ても、あまり面白くないだろう。

 

サッカー選手を理解して、サッカーのルールを理解して、サッカーのチームを理解して、理解を重ねていくことで、サッカーがより楽しめるようになる。

 

人生もそうなんだよ。

 

人生も理解が浅いと全然詰まらないんだ。

 

そう。理解を深めよう。そうすれば、もっともっと人生が面白くなってくる。

 

今の人生がつまらないと感じている人は、要は人生の理解がただ浅い。

 

何をやるにしても、わからないって気持ちがもやもやとやってくるわけだ。

 

それで、わからないから、もやもやして、考えることを放棄してしまう。

 

そこで、しっかりとその自分のわからないと感じる感情に向き合うことだ。

 

この、自分がわからないと感じている時は、自分の人生の理解を深めるチャンスなのだ。

 

人生つまらないと感じている人間は、こういう、チャンスでいつも逃げ出す。いつも思考放棄をしてしまうわけだ。

 

正直、わからないと感じている時は、誰だってつらいなぁと感じますよ。不愉快に感じるでしょう。

 

でも、それを乗り越えるからこそ、わかった後の喜びがある。

 

迷いはそのままにしてもその迷いが永劫に残るが、悟れば一瞬で雲が晴れる。

 

わからないという気持ちから、逃げていると、いつまでも迷いは晴れない。

 

しかし、そのわからないという感情に素直に向き合うことができれば、すぐに、自分の中で、自分は何がわかっていなかったのか、そして、答えを見つけ出すだろう。

 

これは、何をやるにおいても重要。何においても重要なんだから、人生において本当に重要。

 

人生楽しくしたきゃあ、これをやるんだ。わからないという気持ちに立ち向かっていくことだ。そうすりゃあどんどん理解が進み、人生が楽しくなってくる。

闇ある中に光あり。それが人生だ。

闇ある中に光あり。それが人生だ。

 
これを理解できれば、人生で不幸がやってきたり、不健康がやってきても、あぁ。それこそが人生であると、受け入れることができようになる。
 
なぜ闇ある中に光ありか。
 

それは、宇宙的な視点と人生的視点から解釈できるんだ。

 
宇宙ってやつは、みんな知っての通り、基本は真っ暗だ。太陽のような恒星があって、はじめて光が存在するようになる。
 
ここ。この、あまりにも、当たり前に感じているところに、発見が隠されている。
 
宇宙がまず、暗いと、そう決まっているから光って概念が生まれる。光しかなければ、光があることに気づけない。
 

つまりは、光ってのを感じるために、光の存在をわかるために、闇ってのがあると解釈できる。

 
不思議に、宇宙ってのはそうなっている。そして、地球も、人間も、宇宙の産物だ。
 

で、人間の方を考えてみたい。これも、宇宙と同様の解釈ができるだろう。

 
 
不幸があるからこそ、幸せがあり、病気があるからあるからこそ、健康があり、死があるからこそ、生がある。
 
世の中、裏表になっている関係は多いが、そもそも、裏があるから表があるわけだ。
 
人生というのは、ただ幸せに生きれるようにできていない。やはり、不幸という概念があってこそ、幸福の概念が生まれる。
 
辛い時を乗り越えた時に、大きな喜びがある。難しいことを解決した時に大きな喜びがある。
 
そう。喜びというのは、難しいとか、辛いとか、負の要素がなければありがたみがないのだ。
 
今、自分達が恵まれているかってことは、不幸を体験したり、不幸な人と関わってみないと感じとることができない。
 
健康のありがたみも、病気になってはじめて健康のありがたさに気づく人が多いわけだ。
 

だから、この、闇あるところに光ありっていう考え方を受け入れることができればさ、無闇に闇を恐れなくなるわけだ。

 
闇来ても、いつか必ず日は登る。
 
だが、人はやっぱり闇を極端に恐れるんだなぁ。常に光の中にいようとする。
 
とにかくみんな安心を確保しようと動き回るんだ。
 
それは、自然の生き方じゃあない。地球もそうなっていないしね。
 
みんな光ばかりにしがみつこうとするから、闇に陥ることを極度に恐れるんだ。
 
失敗を恐れ、不幸を恐れる。
 
で、結局その悪いイメージを抱えたまま闇に落ちていく。
 
いつか、闇になることを知っていれば、自分に不幸がやってくるだろうし、不健康もやってくるかもしれないと、覚悟できれば、闇に陥ったところでどうってことはない。
 
気が沈むことはあるかもしれないが、また登っていくものさ。
 
究極的にはさ、闇があることを感謝しようってこと。不幸を感謝して、不健康を感謝する。だって、まだ生きているんだもの。
 
光への執着は、闇への恐怖を増大させる。成功にこだわることが、失敗を生む。
 
うまくいかないからこそ、上手くいったときが面白い。
 

繰り返しになるが、まず、宇宙には闇がある。闇があるから光があるのだ。これが悟れれば、闇を恐れることが無くなる。人生において、もはや何も恐れず。

 
 
 
 

刺激のある情報って入れるのは楽だが、それに溺れると堕落する

刺激のある情報って入れるのは楽だが、それに溺れると堕落する

 

刺激のある情報ってわかりやすい。音が派手だったり、音にメロディーがあったり、動画だったりするわけだ。

 

あと、一番刺激があるのは他人と一緒にいるときに受ける情報。これは、友だちと喋っていてもそう。授業を受けていてもそう。テレビも刺激は強いが、それ以上に生のコミュニケーション。

 

この刺激の強い情報は、入れるのは楽。というよりも、勝手に入ってくる。刺激を受けていると。

 

で、この刺激が強い情報ってのは、わかりやすいし、一発で覚えてしまう。例えば、知り合いが付き合っていて別れました。っていう情報を聞いたら、もう2度と忘れない。1回聞いただけでも、1年は忘れないだろう。

 

これが英単語だったらどうだ。100回聞いても、聞いただけでは1年経ったら忘れる。記憶を定着させていかなければならない。

 

多くの人は、刺激のある情報に溺れる。刺激のある情報を求めてしまうんだ。

 

そして、その情報は、自分の中に入ってきても、また何回も繰り返される。感情が揺り動かされてしまうんだね。

 

そして、刺激が少ない、紙媒体の、いわゆる学習向けの情報を習得することはできなくなっていく。。。

 

ある程度の年が経てば、刺激そのものに慣れてきて落ち着くって可能性もあるんだけど、そうなったときに、刺激が少ないものから、満足が得られるかといえば、その可能性は低いだろう。

 

刺激に溺れないように意識していきたい。しかし、社会は往々にして人の感情を駆り立てる方向に発展していってしまっているわけだ。

それで、刺激が多い人生の方が幸せだって考える人も多いでしょう。人生、喜びが多いほうが幸せだって感じている人も多いでしょう。しかし、実際はそうではない。苦しみ無くして喜び無し。悲しさ無くして、嬉しさ無し。

 

結局、刺激が多いことを望めば、喜びの時間とともに、不幸の時間もやってくる可能性がべらぼうに高くなるのだ。

 

刺激を求めずして、ありのままの人生を受け入れ、平凡な日々であろうとも、生きる喜びを実感し、日々大切に生きていきたい。

人を理解しきったって言えるまでには300個ぐらい悟ればいいのかな?

人を理解しきったって言えるまでには300個ぐらい悟ればいいのかな?

 

ある人を理解したって言えるまで、その人に対する気づきは何個ぐらい必要なんだろうか。

 

100ぐらいはいるか。200ぐらいはいるかもしれない。その人の性格から、交友関係、歴史から何まで。200じゃ足りないかもな。

 

そうなんだよ。全然足りないんだ。足りないのにさ、自分達は分かった風に人を判断してしまっているわけ。理解不足なのに、人の言動に対して、あーだのこーだの言っちゃうわけ。そういう時に、どうしてその人がこういう言動したのかとか、どういう意図でそういう言動したとか、理解していないのに、偉そうに発言しちゃうわけ。

 

この人は、こういう人なんだね。とかね。

 

わからないんだよ。他人ってやつは。自分のこともそうだけど。でも、わかった気になっちまうんだ。我々。

 

わかった気になってしまうのが、本当に罠。そこで、理解しようって姿勢を失っちゃうもんね。

 

だから、物事を理解したいと思ったらさ、判断を出さないってことなんだ。ここで、わからないとも判断を出さないってことだ。

 

わからないってのも、1つの判断だからね。たいていの場合がわからないで終了か、わかったふりして終了かのどちらかなんだ。

 

理想で言ったら、人に対して、判断を下さないのがいい。良いとか悪いとか決めようとしない。ただ、人がいる。そして、その人がこういうことをした。せいぜい、ただの事実を挙げるぐらい。そこに良いも悪いもない。

 

良いとか悪いとか、そう簡単に決められないんですよ。

 

宗教の教典とかあったら別だよ。それを元にある程度、行動の善悪を判断できるからね。

 

ただ、薄っぺらい理解じゃあダメだ。こうしたら良いと聖書に書いてあるから。じゃあ、全然ダメ。

 

なんでこうしたら良いと聖書に書いてあるのかと、吟味していく必要がある。

 

と、宗教の話はおいておいて、無闇矢鱈に他人を判断しようとしないことなんだ。

 

それが人生の秘訣さ。

 

人に判断をつけると、それが自分に跳ね返ってくる。周りがこうしていると、感じてしまうと、自分もそうしなければならないと感じてしまう。

 

知らず識らずの間に、外から価値観がどっさりと入ってきてさ、それに縛られるようになっちゃうんだよね。それも、もともとは自分が何かに対して判断を下したから。

 

 

理解をしたと言い切れるまでは、理解したふりをしなくてもいい。

 

たぶんあれだ。日本って、わからないっていうことを恥としている。だから、わかっているふりをするようになる。

 

わからないことを恐れるがあまりに、答えに固執するんだね。なるほど。

木のように幹を太く、根を深め、そして葉を広げていく学び方

木のように幹を太く、根を深め、そして葉を広げていく学び方

 

これが、最も良い学び方であると感じている。一本の一貫したものを掘り下げていく、そうして、掘り下げていきながら、そこに付随した知識をそれまでの知識と結びつけていく。

 

学びには一貫したものが大切だ。散逸的に、つまりはばらばらに学習していこうとすると、とても効率が悪く、身につかないんだ。関連性の薄いこと、例えば、将棋とポーカー、麻雀を同時に勉強してもなかなか上達しない。将棋とチェスなら多少は関係性があるかもしれない。

 

しかし、もっと良いのは、将棋に関連したことを学び続けること。詰将棋だったり、将棋に関わる人だったり、将棋の歴史だったり、将棋の実力という軸を磨きながら、それに関連することを学んでいく。

 

普通は無意識的にこう学んでいるはずなんだ。一本の自分の興味があることを軸に、広がっていくような学び方。こうなってくると、興味が興味を呼んで、モチベーションも湧き上がり、そして、実力も増していく、そして、その中で創造性が発揮され、新たな手を生み出していくことができるだろう。

 

今の自分は、こう学べているのかどうか疑問なのである。どうしても、散逸的な勉強になっている。発散的になっている。そして、興味を失っていく。肝心な幹がない。枝葉部分に学びが集中してしまっている。だから、いつまでやっていても、自分に基礎が無いような、そんなもやもやした気持ちになってくる。

 

これを打破していくためには、1つずつ整理していくしかない。1つずつだ。今、自分が持っている知識はバラバラなんだ。整理してつなげていく。そして、掘り下げ、広げていくように理解していこう。

 

今の研究室、これを単独でやっていかなければならないと感じている。しかしだ、これは、今の研究室が悪いわけではないんだ。もともと、こういうものなんだ。学問ってさ。

 

学問ってバラバラな知識をまとめるもんだ

 

未知なる領域を開拓していくには、手探りながら、バラバラな知識を集めてみて、整理して、そこに体系化を行なっていく必要があるだろう。だから、もともとはこういうもののなんだよ。

 

うまくいかないとか、自分がなんとなくいけていないなって感じるのを、何か外が原因であるように考えてしまってはいけない。ただ、別に自分が悪いとか、自分が悪かったとか、そういうわけでもないんだ。

 

上手くいっていないからって、自分や環境を責めるこたぁない。

 

ただ、今までは自覚していなかった。気づいていなかった。それだけなんだ。それに、気づくことができた。

 

別に自分が悪かったわけではない。ただ、良いやり方、うまいやり方に気づいていなかったんだ。

 

木のように知識を太くし、深め、広げるこの自覚を大切にしていこう。

正解を求めるなかれ

正解を求めるなかれ

 
そもそも正解なんてありゃあしない。正解って何よ。
 
正解ってのは、問いが出てから正解が決まるんだ。
 
なのに、問いすらもわからない状態で、これが正しいとか、間違っているとか、正解があるような表現が今の社会には多くはないですか。
 
特に英語なんかやってるとそう感じるでしょう。英語こそ答えなんてない。みんなが求めているのは、今の自分の日本語で考えていることを英語に対応させようってこと。そこの時点で間違っている可能性が高い。日本語に対応する英語の表現はあっているけど、そういう表現は実際使わないとかね。
 
常に正解とか合ってるとか間違ってるとか正しいとか正しくないとか、そういう気持ちがしてきちゃうわけですね。
 
 
ただ、正解を決めていくとしたら、それはシンプルなものだろう。シンプルで明快なこと。それがわかりやすいってことだ。
 
問いがあって、答えがあるというのは、ちょうどロジカルシンキングのようなもの。ロジカルシンキングは論理で問いと命題を結びつけるメソッドだから、シンプルに知識を結びつけたものは、正解に近くなりやすい。
 
となると、シンプルな表現が望ましいってなるんだけど、ここに自我が入ってくるとさ、単純すぎるっていう印象も生まれる可能性があるんだよね。なんとなく複雑な方が高等に感じてしまうわけだ。それで、答えからどんどん離れていく。
 

シンプルなものから遠ざかれば遠ざかるほど、答えから遠のいていく

 
できない人ほどごちゃごちゃと余計なことをする。かつては自分もそうだった。ごちゃごちゃ余計なことをやって、そして迷うわけだ。シンプルにリラックスして考えりゃあいい。
 

人生だってシンプルに捉えていった方がいいんだよ

 
 
 
 
 

観察し続けること

良く観察すること。

 

良く観察し続けることは大切だ。物事や人を良く観察する。人が観察する時、そこに感情の要素は入ってこなくなる。

 

逆に、感情が発現している時、自我が全面に出ている時は、観察することは難しい。観察不足になり、誤った判断を下してしまいかねない。

 

感情を抑えて、観察し続けることだ。自分の思考を、目の前の知識を。

 

心を空にして、じーっと観察することができれば、そこから、今まで見えてなかったものが沢山見えてくる。頭の中でつながっていく。

 

特に、自分が得意としていないものに対してこそ、観察は有効である。得意としていないものは、その時点でなんらかの自我が発動している可能性がある。

 

そして、思考が閃いたら、書いてみることだ。書いてみて、また観察する。

 
観察をただひたすら続けるのである。
 
僕は幸い人を観察することを良くやってきたのかもしれない。そこから、人の法則をなんとなく感じることができていた。しかし、過去の自分の観察は、自我の視点が入り込んでいたため不十分な観察だったと思う。
 

人の観察は、自分の自我を超越させて行わなければ、ただの批判に終わってしまう可能性がある。

 
これには良く気をつけていきたい。
 
何事も、曇りなき心のまなこで冷静に見つめて、理解を進めていこう。
 
英語にはこれが重要だ。とにかく良く観察していくこと。

拡散的な学習をすると学びの効果は薄い

拡散的に、発散的に勉強していくと、学ぶ効果がひたすら薄くなっていく。

 
自分の今いる研究室もそう。拡散的に研究しているので、やっていて学習効果がとても薄く感じる。
 
少なくとも、プロフェッショナルが養成される環境ではない。だが、こう、批判をしてしまうと、ネガティブな意識が残るので、この発散的な研究、勉強の利点を考えてみよう。
 
良くある話が、幅広い知識が身につくっていう表現だ。幅広いってのは、なんとなく幅広いって感じているだけで、実際の広さはわからない。そして、幅広くやっていても、相互に関係がないのであれば、理解を深めることが難しい。
 
別に幅なんて広くない。そこに気づかなければ、そこで、他の研究室を引き合いに出していってはならない。と、結局否定的な見方が入ってくる。
 
人生は発散的である。人に自由を認めると発散的になる。アイデンティティを確立したがる。人の真似は嫌がる。自分は自分だと、自分のことを特別に思いたがる。
 
これと同じ図式が、今の研究室でも起こっているわけだ。まぁ、発散的だと、学習効果が薄れるし、自分の研究の深みは出づらくなってくる。良いことってなんだろうか???
 
企業もある程度成長してくれば、やや発散的に多角的な経営を行っていく。それと、研究室はスケールが違いすぎるわけだ。お互いに牽制する意識も出てくるだろう。見栄やプライドも働きやすくなる。
 
つまりは、発散的な環境下では、自我が良く育っていくってことだ。
 

身体の中でもやもやする気

身体の中でもやもやする気を上手く意識していこう。

 
なんとなく不愉快に感じている時、身体にもやもやしたものが蓄積されてくる。そして、それに付随するような悪いイメージを連想してしまうのである。
 
ネガティブに、他人を攻撃するような妄想。否定的なイメージ。自分の正当化。そして、他人といる時に、それを言葉にしてしまって、発散させてしまう。
 
射精する時のメカニズムと等しい。気が高まってきて、発散させてしまうこと。
 
それと同様に、心の中で不愉快な印象が高まってくると、発散させようとしてしまう。
 
そして、疑惑の裏に迷いあり。疑惑や否定、批判を繰り返していると、正解に固執する完璧主義者になっていってしまう。
 
疑惑、否定、批判をやめていくこと。正解にこだわらないこと。英文なんか研究なんかもそうだ。

病気が人に気づきを与えるように自我も人に気づきを与える

病気がきっかけで、健康に対する気づきを得る人は多い。一度、悪い状態を経験すると、一度、自分が壊れかけるのを感じると、まず、自分の身体の弱さを知り、そしてそこから高めようとする。
こうしてみると、病気ってのもありがたく感謝するもんなんだなぁ。

これは心も同じだ。不愉快なことがある。不愉快にしてくる人間がいる。追い詰められると感じる。ここで、どうしていくか。感謝するのである。観察するのである。

あっ。自分はこうなるとこう感じるようにできているんだなと。自分という人間の仕組みを理解していく。

だから、周りの自我が強烈な人はありがたい。自分に対して、沢山の気づきを与えてくれる。

人生のコツは真我に従って生きていくこと。そのためには、自我の逆を行けばいい。

自分を理解していこう。

心と身体の関係 慢性疾患と短期的しょ

心ってだいぶ身体と似ている。身体に短期的な不調と慢性疾患があるように、心も短期的な心の変化である感情と、慢性的に変わってきた、いわゆる性格に近いものがある。あとは、慢性的心の習慣。

この、慢性的な心の習慣ってのに気づいていくことが、もう人生の中でも最重要課題といっても過言ではない。なぜなら、慢性的な心の習慣はほぼ99%の人が示しており、直さないでほおっておくとどんどん悪化していく。しかも本人の無自覚に。身体の病気と同様だ。

慢性的心の習慣。これこそが、人の悩みの元であり、迷いの元であり、不幸の元である。

これは、おそらく、良い習慣を形成して、慢性的な心の習慣を改善することは難しいだろう。

悪い根本的原因を理解して、それを真剣に見つめれば、心の習慣が少し緩和していく。硬くなった身体がすぐにストレッチで軟らかくはならないように、固くなった心もそんなに簡単には緩和されていかない。

心と身体は似ている点が多い。心の落ち着きのなさと身体の落ち着かなさも似ている。心の方が厄介だ。すぐに別のことを考えようとしてしまう。未来のこと。過去のこと。他人のこと。まわりのこと。

心を落ちつかせ、今、今の習慣で最高の使い方をしていくことだ。

英語を勉強する時に思うこと。特にwebで。

webで英語関連の記事を見かけると、やれ、私はTOEIC何点です。だの、どれくらい留学してましただの、という主張を良く見かける。

これは、発言に説得力をもたせるためだろうが、なんとなーく違和感を感じるものである。

こういうのをみていると、なんだか、ちゃんと英語ができる人じゃないとwebの場においても意見できないんじゃないかって意識が、心の底で生まれてくる。

で、僕は私はこうやって上達してきましたってアピールが目立つ。

確かに、英語を習得していくことは容易ではない。特に日本人になると。もともとの文の構造や言語の成り立ち、表意文字表音文字かってので、日本語と英語はかなり異なっている。

まぁ、だからと言ってどうしたら良いかってのは、結局情報の受け取り手の問題になってくるんだね。

やっぱりTOEICができる=英語が話せるってことでもないのは、みんな感じていることなんだろう。

その辺もややこしくなる原因だ。英語ができるようになりたいって人は当然喋れるようにもなりたいと感じているはずさ。で、どうやってトレーニングしたらいいか、そして、どうやって自分の能力を測っていったらいいかってなると、たいていTOEICが出てくると。




先のことは考えないことにする

先のことは考えない。生きているのは今だから。

 

とにかく、集中すべきは、今、今、今。

 

明日何があるとか考えない。今できることを今やる。

 

来週何があるとか考えない。今日できることを今日するだけ。

 

未来がどうかとか考えないんだ。考えてもわからないんだし。

 

1つ決まっていることは、今、やれることがあるってこと。そして、それをやるかやらないかってことだけなんだ。

 

今、やれることをただ、今やっていくだけなんだ。

 

明日のことも、昨日のことも考えない。心をただの今現在に集中させる。ただそれだけさ。

 

この、時による心の分散を防ぐことはとてもとーっても大切なことなんだ。そして、他人に対して意識を振り向けないこと。あとは、自分の将来がどうとか、もし、今やってることがダメだったら、どうにでもなれとか、そんなことも考えない。意識の片隅にすら置かない。

 

何があるかわからん。人生は。

 

だから、何があるかわからんので、今できる備えをただやるだけなのだ。

 

心を緩めることなく、ただ、ひたすらに、ただ前向きに。