ねこ哲の思考メモ

気づきや日常をメモしていく。後に思考を整理するために。

病気が人に気づきを与えるように自我も人に気づきを与える

病気がきっかけで、健康に対する気づきを得る人は多い。一度、悪い状態を経験すると、一度、自分が壊れかけるのを感じると、まず、自分の身体の弱さを知り、そしてそこから高めようとする。
こうしてみると、病気ってのもありがたく感謝するもんなんだなぁ。

これは心も同じだ。不愉快なことがある。不愉快にしてくる人間がいる。追い詰められると感じる。ここで、どうしていくか。感謝するのである。観察するのである。

あっ。自分はこうなるとこう感じるようにできているんだなと。自分という人間の仕組みを理解していく。

だから、周りの自我が強烈な人はありがたい。自分に対して、沢山の気づきを与えてくれる。

人生のコツは真我に従って生きていくこと。そのためには、自我の逆を行けばいい。

自分を理解していこう。

心と身体の関係 慢性疾患と短期的しょ

心ってだいぶ身体と似ている。身体に短期的な不調と慢性疾患があるように、心も短期的な心の変化である感情と、慢性的に変わってきた、いわゆる性格に近いものがある。あとは、慢性的心の習慣。

この、慢性的な心の習慣ってのに気づいていくことが、もう人生の中でも最重要課題といっても過言ではない。なぜなら、慢性的な心の習慣はほぼ99%の人が示しており、直さないでほおっておくとどんどん悪化していく。しかも本人の無自覚に。身体の病気と同様だ。

慢性的心の習慣。これこそが、人の悩みの元であり、迷いの元であり、不幸の元である。

これは、おそらく、良い習慣を形成して、慢性的な心の習慣を改善することは難しいだろう。

悪い根本的原因を理解して、それを真剣に見つめれば、心の習慣が少し緩和していく。硬くなった身体がすぐにストレッチで軟らかくはならないように、固くなった心もそんなに簡単には緩和されていかない。

心と身体は似ている点が多い。心の落ち着きのなさと身体の落ち着かなさも似ている。心の方が厄介だ。すぐに別のことを考えようとしてしまう。未来のこと。過去のこと。他人のこと。まわりのこと。

心を落ちつかせ、今、今の習慣で最高の使い方をしていくことだ。

英語を勉強する時に思うこと。特にwebで。

webで英語関連の記事を見かけると、やれ、私はTOEIC何点です。だの、どれくらい留学してましただの、という主張を良く見かける。

これは、発言に説得力をもたせるためだろうが、なんとなーく違和感を感じるものである。

こういうのをみていると、なんだか、ちゃんと英語ができる人じゃないとwebの場においても意見できないんじゃないかって意識が、心の底で生まれてくる。

で、僕は私はこうやって上達してきましたってアピールが目立つ。

確かに、英語を習得していくことは容易ではない。特に日本人になると。もともとの文の構造や言語の成り立ち、表意文字表音文字かってので、日本語と英語はかなり異なっている。

まぁ、だからと言ってどうしたら良いかってのは、結局情報の受け取り手の問題になってくるんだね。

やっぱりTOEICができる=英語が話せるってことでもないのは、みんな感じていることなんだろう。

その辺もややこしくなる原因だ。英語ができるようになりたいって人は当然喋れるようにもなりたいと感じているはずさ。で、どうやってトレーニングしたらいいか、そして、どうやって自分の能力を測っていったらいいかってなると、たいていTOEICが出てくると。




先のことは考えないことにする

先のことは考えない。生きているのは今だから。

 

とにかく、集中すべきは、今、今、今。

 

明日何があるとか考えない。今できることを今やる。

 

来週何があるとか考えない。今日できることを今日するだけ。

 

未来がどうかとか考えないんだ。考えてもわからないんだし。

 

1つ決まっていることは、今、やれることがあるってこと。そして、それをやるかやらないかってことだけなんだ。

 

今、やれることをただ、今やっていくだけなんだ。

 

明日のことも、昨日のことも考えない。心をただの今現在に集中させる。ただそれだけさ。

 

この、時による心の分散を防ぐことはとてもとーっても大切なことなんだ。そして、他人に対して意識を振り向けないこと。あとは、自分の将来がどうとか、もし、今やってることがダメだったら、どうにでもなれとか、そんなことも考えない。意識の片隅にすら置かない。

 

何があるかわからん。人生は。

 

だから、何があるかわからんので、今できる備えをただやるだけなのだ。

 

心を緩めることなく、ただ、ひたすらに、ただ前向きに。

心の余裕が無くなるとすこぶるパフォーマンスが落ちる

金が無いとか、今の現状が厳しいとか、来週あれやらなければならないとか、やれ忙しいとか、頭のなかはめちゃくちゃ考えをぐるぐる張り巡らせようとする。

 

そして、それをすればそれをするほどに、目の前のことから意識が離れていく。心が分散しちまうんだ。

 

余裕が無くなっている時ほど、もっと集中力が奪われ、もっと追い込まれるようになる。

 

この法則を理解していかねばならない。

 

心がどんどん余裕が無くなると、ネガティブな方向に物事を考え始める。そして、周りを批判し始める。余裕が無いと、こうなってくるのだ。

 

身体の柔軟性もそう。余裕は大切だ。余裕を持つように意識することなんだ。

 

そもそも、余裕が無いってのは、勝手に自分が思い込んでいるだけ。

 

例えば、今日。まだあと2時間もある。2時間もあれば何かできる。そう考えるようにするんだ。あと、これだけあるじゃないか。まだまだやれるよと。

 

残された課題や仕事を意識すると、心がどんどん狭くなるが、今日はまだあと時間がある。まだ今日にやれることがあると意識することができれば、心の持ちようが全く変わってくる。

 

そうしよう。そう考えるようにしていこう。

 

僕は、今まで自分の時間に対する意識が下手だったんだと思う。いつも何かに追われるような意識の使いかたをしていた。そうすると、どんどん心が追い詰められ、周りへの批判が心の中に積もっていく。

 

それを全く異なる見方に変えていくんだ。今日はまだこれだけの時間がある。じゃあ、今日やれることをやっていこうじゃないかと。

 

できようが、できなかろうが、そんなことはどうでも良い。本当に。

 

周りにどう思われようとも、どうでも良い。とにかく、日々、できることをやっていくんだ。今日はまだ2時間もある。

 

だから、今、気づいたことをまとめたんだ。

 

別に期限に間に合わなくたって良い。そのぐらいの気持でいいんだ。とにかく、今だよ。

 

期限なんて関係ないね。

 

マラソンだってそうさ。最終のタイムばっかり意識してたって仕方ない。今のペースだよ。今の一歩一歩が大切。そして、周りのランナーを意識しすぎないこと。

 

自分のペースをしっかりと意識して、それを高めていくように努力を続けていけば、勝つつもりが無くても勝っている。自分にさ。

 

それしかない。俺には。

 

意識を変えていくんだ。時間に対する意識をさ。まだ、今日は2時間ある。やれることをやっていこうじゃないか。

どうしてだらだらと動画を見てしまったり、ブログを見てしまうのか

心の底で、今これをやる時間ではないと考えながら、だらだらと動画を見たり、ブログをみてしまうのは何故か。

 

1つは習慣化されている可能性がある。習慣的になっていて、同じパソコンで同じ姿勢になると気が緩む。1度習慣がスタートしてしまうとしばらくは止まらない。ぶっ通しで、次の動画、次の記事を見てしまう。

 

何かを途中でやめると、もやもやした気持ちが残り、なんとなく続きが気になる。で、1つのコンテンツだったら次第に飽きてくるのだが、複数のコンテンツだと、飽きる前に次のコンテンツ、次のコンテンツへと進んでいく。そうして、自分の馴染みのあるコンテンツが増えてくると、そのコンテンツ自体への理解度が深まっていく。

 

そして、コンテンツへの中毒性を獲得する。動画を見る中毒性。まとめブログを見る中毒性。中毒が中毒を呼び、そしてやばいと頭で危機感が募るとまたその中毒性が増していく。

 

しかも、これらのコンテンツは、ネットへの接続環境さえあれば、無料で楽しむことができてしまう。お菓子の味を知ってしまうとそれにハマってしまうように、一度コンテンツの面白さを知ると、なかなか忘れることはできない。

 

また、コンテンツの習慣化視点とは別のアプローチとして、環境による心の緩みも動画やブログにハマってしまう考察を行う。

 

人はぬるい状況になると自我が発動してきて気が緩む。どうやらこの可能性が高いようだ。自分達は自分の部屋にいると緊張感は無くなる。何をやっていても周りから刺激はなく、そして、緩んでいく。

 

自分としては、パチスロ動画やまとめサイト、ゲーム動画の閲覧を禁じていきたい。自分がかつてタバコを止めたように、これらを止めていきたい。これらに関われば、人生が破壊されていく。

 

なんとなく自分で有益な情報があるのではと考えてしまっている自分に鞭を打ち、見る必要のないこと、知る必要のないことと自分に言い聞かせる。

 

知る必要のないことだ。これは。見る必要がないのだ。少なくとも、自分にとっては。

 

確かに、見ていて面白い。なんか良いことを学んだような気分にもなる。

 

しかし、実際、その後に充実感がなく、なんとなく後悔の念がこみ上げてくる場合が多い。

 

タバコと同じだな。まとめブログも。動画も。

 

意志でもって乗り越えていく。

 

時間の楽しみ方の1つという見方もあるが、中毒的な時間の使い方は、歯止めが効かなくなる可能性がある。

 

努力をする時間が、別のことに費やす時間が無くなる。

 

それなら、もともと別のことに夢中になっていればいいってか?いや、それもまた難しい選択。もともと夢中になって、勉強したり、研究していれば、別に今考えているようなことに悩まされることは無いだろう。

 

夢中になれずに、道草に心を奪われてしまうような状況だから困るのだ。

 

まずは、深呼吸だな。肛門を閉めよ。

 

引き続き考察を続けていこう。

 

 

 

 

What is the most important subject to learn English?

英語を理解するのに重要な項目は、動詞と名詞であることは、想像に難くない。

 
ここでいう名詞とは、どのように主語を決定していくかである。
 
We fabricated this machine for the measurement.
This machine was fabricated for the measurement.
 
これは、同じ意味を表すが、しばしば研究英語においては、後者の表現が好まれる。研究英語では、weという抽象的な人物主体を避け、具体的な人名か、無生物が主語になる表現が好まれる。
 
研究英語では、その多くが無生物主語である。
 
そして、その無生物主語の中でも、日本語で〜数とか〜の数といった表現は要注意したい。英訳しようとすると、日本語で、例えば光子数とか、電子数とか、名詞にとりあえず数をつけてみて、その数が増加したとか減少したという表現を、我々は用いてしまいがちである。
 
例えば、The number of electrons has decreased by recombination.  電子の数が再結合により減少した。
これは、Almost electrons has dissapiared by recombination. ほとんどの電子は再結合により消えた。
上の2つの文では、ニュアンスそのものは異なるものの、下の文において形容詞を調整すれば、もともと意図していた文を表現できるだろう。
 
名詞の使い方を意識して、文を短く、スッキリとまとめていこう。

純粋に向き合うためには、良いとか悪いとか考えないこと

物事に純粋に向き合うためには、物事の意味や善悪を考えないことである。

 
人の行動に対して、無関心でいることだ。無関係、無関心。
 
基本はこのスタンス。中には、無関心はいけないことだと主張する人もいるかもしれないが、意識的に無関心であることは、自分の成長を考えたばあい、極めて重要となる。寂しがりやの相手をする必要も無ければ、自分の心を慰める必要もない。これらは、自我が潤いを求めているだけなのだから。
 

意識的に無関心になることができなければ、本当に興味を持てることがなくなっていく。心を囚われる習慣ができてしまうからだ。

意識的に無関心になることは、他者から見たら冷たく感じるかもしれないが、そう感じている間は、その人間は自我が全面に出ている。

 

結局、自我が強い人が意味があるとか無いとか、寂しいとか、寂しくないとか、どこまでいっても主観的な価値観を生み出し続けていく。

 

人が判断を下そうとする時に、そこに自我があり、自分を正当化したり、他者を否定的に眺める。善を決めるから悪があり、良いを決めるから悪いがある。

 

心の感じるままっていうのは、自我が無い、心が澄み切った状態で物事を取り組むことだ。

 

周りに何があっても、心が流されることを許すなかれ。周りの出来事に対して、勝手に分析をはじめてはならない。

 

要は全ては自我によって物事の上達が決まる

自我があるところに成長なし。

 

感情がむき出しになっている時、人はその成長が著しくにぶる。自我ってのは、短期的な感情と長期的な負の感情の蓄積で形成されると感じる。

 

自分の場合、英語や研究に関して自我がしつこくこびりついているのがわかる。これを理解して、取り除いていかねばならない。

 

成長していないところは、自我がいる。自我は自分の習慣的なパターンとも言えるだろう。無意識的に発動するネガティブな習慣的パターン。これが自我。

 

だいたい年齢としては10歳以降に自我が強烈になってくるように感じる。中学生はもう自我が強いの強いの。高校生でもまだまだ強烈。大学生になって落ち着くやつが少しずつ出てくる程度。

 

中学生ぐらいの段階であんまり自我が発動してこなかった人は幸いにも、そのまま将来になっても成長し続けることができる。中学生ぐらいで自我に染まった人は、なんとかこれを克服していかねばならない。ほとんどの人が自我で染まっていて、社会も自我で染まっているような社会だ。だから、ここに気づくことは難しい。

 

短期的な感情を克服するだけでなく、長期的な潜在意識を克服することによって、少しずつ自分の自我を取り除くことができる。自分が当たり前に感じていることほど、自我が芋づる式にがちがちの価値観を形成している可能性が高い。

 

よって、自分の成長が鈍いと感じたら、どんなネガティブな印象を抱いているか、それを良く分析してみることだ。わからないって感情もネガティブの1つである。何がどうわからないのか。良く理解するように努めていくこと。 

答えを決めたがる日本人

日本人は答えを決めたがる。どっちが正しい、どっちが悪い、あれが良い、これがよくないと。

 
これを考えてしまうがゆえに、目の前のことに対して、純粋な気持ちで観察することができなくなってくる。
 
研究でもそう。恋愛でもそうだ。こっちの方がいいと、なんとなく勝手に決めて、目の前の状況から意識が離れていく。その先にあるのは迷い。
 

そもそも、あれが正しいとか、これが正しいというのは無い。良いと悪いという表現は抽象的すぎる。そこには、様々なイメージが含まれている。

 

正解がないものに、無理やり正解をつけている。こう生きるのが正しい。こう働くのが正しいとかね。できる人はこうやってる。とか。

 

それらは、余計な情報となって、頭の中にこびりつく。自分が何かやろうと思っても、すぐに正しいかどうかと頭によぎっていってしまう。

 

一番心が弱る状態は迷うこと。心が分裂する状態だ。正しいとかどうとか、意識すればするほど、そこに迷いが生まれてくる。じゃあ、本当の正解はなんだ。ってね。

 

実際、そんなものはない。何が正解ってない。そもそも。今正解だと感じたことも、時が経てば不正解になる可能性もある。正解も不正解も無いんだ。だから、成功とか、失敗という概念も無い。

 

これは、競争原理が働いてしまうと、優劣がでてきてしまうため、正しいとか、正しくないって発想がでてきてしまう。ここを超越できるかどうか。競争を超えて、自分の純粋な心で物事に向き合い、楽しめるかどうか。全てはここへ。

恋愛と研究は同じ

恋愛だったら、相手がどうあろうとも受け入れることが大切だ。相手を選ぶんじゃなくて、相手との関係性を大切にすることだ。

 
研究でもそうだろう。研究の対象がどうあろうとも、自分と研究で理想的な関係を築けるかどうかなんだ。
 
研究の場合、周りの人間がどうとか、他の研究室ではこれをやっているとか、そういった外的な情報が飛び込んでくるだろう。これを極力相手にしないことなんだ。純粋な気持ちで見つめること。そして、純粋な気持ちで取り組むことだ。
 
自分の能力がどうかなんて関係ないね。要は、自分の覚悟と気持ち。恋愛だって同じなんだここは。純粋に相手を見つめられるかどうか。受け入れられるかどうかだ。
 
恋愛だって、自分や相手が良ければ上手くいくってことはない。とにかく関係性が大切なんだ。ここに集中することで、外の意識が消えていく。
 
 
この、ピュアな気持ちに対して、自我は邪魔をする。これを信じてやっていっていいのか?周りはできるんじゃないか?とかね。周りの成功例や言葉が飛び込んできて、心が揺り動かされる。そして、関係性を失っていく。。。
 
不安になるのは、ただの自我の働きだ。できないと感じるのも、これも自我がただ勝手に感じているだけさ。
 
研究の場合はさ、恋愛と違うのは、研究そのものはあまり変わらないってこと。変わっていくのは、研究に対する向き合い方なんだ。
 
金がどうとか、研究分野の流行とか、自分が上手くいくとか、周りが上手くいってるとか、これらの外的な要因に、我々は研究に対する意識を動かされてしまう。
 
だが、この、本質は研究と恋愛は等しく、目の前にあることの関係性に注目することが大切であるという意識に気づくことができた。全てはここなんだ。受け入れること。

自分の弱点

自分の弱点は迷うことと自惚れることだ。

 

この2つが噛み合わさると、やる気を失うようである。

 

ここに、さらに楽天家が入ってくると、もう、恒常的な努力が失われていく。

 

自分の心の中では、やれば大抵のことができると考えてしまっている。

 

そこに驕りがある。

 

そこから、人と比べていることに、なぜ気づいていないのか。

 

自惚れているその裏側に、人と比べている意識があることになぜ気づけないのか。

 

あらゆることを受け入れる覚悟はあるのかい?自分は?

 

なんとなく迷っている。そして、最善な解を探しだそうとしているわけだ。

 

もう、決めてしまったらいいんだよ。何でもいいから。生き方ってやつを。

 

人間として、人間らしく生きているならば、なんだっていいじゃないか。職業もさ。

 

だから、自分のやりたいこととか、あんまり意識しないでさ、この仕事をやるとこうなるとか、この仕事は大変だとか、そんなことを一切考えないで、決めちゃいな。

 

ただ、純粋に研究に向き合って、科学と関わっていくってことをさ、もっとしっかりと決めちゃえばいいんだよ。

 

そうなったら、やることは、ただ論文を読んで、論文を書くだけさ。シンプルなんだ。あとは、それに足りないことを見つけたら、トレーニングをしたらいい。

 

あーだの、こーだの、考えることはない。ただ、純粋に、目の前のことに取り組めばいいのさ。

 

そこから、世界が開けてくる。君の、君だけの人生がさ。

 

純粋に何かと向きあうってことさ。そして、それを通して、君は人間ってやつをもっと理解する。

 

今の能力なんて関係ないね。純粋な心でまた、新たに1から取り組めていけるかどうかだ。

 

ただの純粋な気持ちで、向き合って、そして、ただ無邪気に楽しんでいこう。

 

余計なことを考えるから、何事もつまらなくなる。そこに気づくことさ。

乱雑だろうが、抽象だろうがとにかくまとめていく

英語の勉強法や、研究をいかに進めていくかも、乱雑にはなるが、とにかく書き出して表現していく。

 

いきなり完璧なものを作ろうとはしない。とにかく、そのときに感じていることを述べていく。そして、述べて、後々に整理をする時に活用するのである。

 

英語に関しても同じテーマで何回かまとめを繰り返していけば、そこに大いなる興味が生まれてくる。完璧に整理をしようと思う必要はない。ただ、何回かやってみることが重要だ。

 

研究でもそう。自分が何をわかっていないのか、何がわかれば、研究をもっとわかるようになるのか、それを書き出して、整理していくことが大切だ。

研究にもペースが大切

研究にもペースが大切

 

マラソンではペースを守る。勉強もある程度のペースに基づいて学習計画を立てていく。

 

ある程度の計画性があると人は安心する。一方、計画が不安定だと、継続する習慣がなかなか身につかず、力もつかない。

 

ここに、外からどんどん雑用なんかの外乱を入れてくると、研究のペースが乱れていく。そして、研究をやらない習慣ができてしまう。

 

計画性は重要だ。

 

無計画の中で自転車操業的に行う研究は、気持ち悪く感じるようだ。そこに深みが無い。そこに戦略が無い。そして、自分自身の能力をどう成長させていくかも、戦略性が無いと、何か空虚なものを感じるのである。

 

足りないものをその場で補おうとするのは、完全に行き当たりばったりのやり方。それをやっていては先が見えようはずがない。計画的に全体的にどう進めていけばよいのか、それを描いて、取り組むことである。

 

今の指導教員の方からは、それを学ぶことができなかったようだ。一貫性が無いというのは、気持ち悪く感じてしまう。

 

ペースを守ること、そして、一貫性をもって努力し続けることはどうすればできるか。

 

自由な環境であればあるほど、それが難しく感じるだろう。現代は、人生の選択肢は比較的に自由に選ぶことができる。だからがゆえに、人生においても迷う人が多くなる。自由は迷いを生む。

継続と理解

自分を向上させていくには、継続と理解が大切だ。

 

継続は、ずーっと継続させる必要はないが、ある程度のレベルに至るまで、何回も繰り返すこと。同じ行動パターンを継続させること。

 

理解は、知識と知識を結びつけ、そこに気づきを入れていくことだ。

 

いきなり何かをやろうったってできるようにはならない。コツコツと継続させながら、気づきを加えていくことだ。

 

ただ、継続させているだけでも上達は止まるし、理解をしていこうと思っても、繰り返しやらなければ定着することがない。

 

どちらも大切なんだ。

 

外からの外乱が大きい時、継続性が失われる。外から色んな刺激が入ってくると、心がそれに囚われるようになり、継続ができなくなる。そして、気づきも失われていく。

 

外からの刺激がやっかいだ。外からの刺激に心が囚われるほどに、我々の成長はにぶる。

 

~しなければいけない、~した方がいい、などなど、様々な言葉が飛び込んでくる。外からも内からも。

 

これらの刺激を流していくことだ。